禅・羅漢と真珠 ◆元服の書 ⑫ コピペ根性は捨てましょう!

元服の書⑫ 

 禅は、どこで学ぶか・・教えてください

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 

世界中から「ZEN」を知りたくて、日本へやって来ます。私も坐禅を学びたいのですが・・どうすればよいか教えてください。

 

唐突にお答えします。

「禅」は、いくら、学習したり、修行したりしても習得できるものではありません。よく言われる「悟り=見性・透化・大覚」などの体験の仕様(TPO)は、すべて・・役立たずの坐禅や考えも及ばない公案粘弄(コウアン ネンロウ・・碧巌録、無門関などの禅語録の考察)と、日頃の生活態度、正直な仕事の年月など、ひとり独りで違うのです。

禅語録には、沢山の禅者が、偈・頌(ゲ・ジュ 悟りの漢詩、心境)を歌っていますが、同一の禅機(悟り)・同一の禅境(地)がありません。例えば、暁の明星を看て(これは釈尊)とか、大喝一声、耳が聞こえなくなってとか・・梅の香りをかいで・・お墓を掃除している時とか・・箒(ホウキ)で叩かれて・・とか、突き倒されてとか、風呂で体を洗っている時(これは私の場合)など、ひとり独り、突然、閃(ひらめ)いて体覚=直観するのだ・・と言えましょう。

ただ、ハッキリしているのは、禅寺などでの集団の坐禅会や瞑想会、写経や精進料理の観光気分では、純禅に程遠い出来事です。

大事なのは、独りであること。折々に、3分程度、生活の中で「坐(行)禅」をすることと、「公案」を読んだりして・・フト心のどこかから湧いてくる「?」・・疼きを意識することがベースになっています。

ですから、ガムシャラに、著名な寺僧(師家)の教導を受けても、あるいは相見師事して、僧堂接心で両足が死ぬほど(これは外人さんの表現です)難行苦行を続けても、大悟徹底はまず無理でしょう。禅寺の跡継ぎ予定の若者たちが3年ほど温室栽培のイチゴ(一悟)顔で飼育されても所詮、養殖もの。そんな資格を取りたくて坐禅する・・心の悩みや不安を解消したくて坐禅する・・為に、その仕方を教えてほしい・・学びたい・・では、見込み無しと、冷たく断言するより方法がありません。甘えてはいけません。アナタの心の奥底から湧いてくる悩みこそ・・その気にかかる心の疼きこそ・・アナタだけが解決できる・・アナタだけが対応できる・・大事な大転換の素(もと)なのです。櫱(ひこばえ)の大樹となる山河大地であると心得てください。

どうぞ、友人との語らいやスマホやパチンコなどで気を紛らわせないでください。それらしい先生や本(知識)や、誰かが楽し気にやっていることに魅かれてはなりません。何か誰かから教導を受けられるのでないか・・と思うこと・・それが一番の甘えなのです。コピペ根性は捨てましょう。

世界(欧米)に「ZEN」を紹介した禅者/仏教学者の故、鈴木大拙先生は、禅を知りたいという人に対しては、直ちに、その場のテーブルを叩いて(ノックして)「ここから入りなさい」と言われたそうです。

 

欧米の方は、英文で書かれた「Living by ZEN・禅による生活」を読まれるよう推奨します。日本の貴方には(あなたのお年を知りませんが)何の役にも立たない3分間独りポッチ禅をお奨めします。そのおりおりの坐禅に、矛盾した問答の答えようもない・・碧巌録と無門関の意訳の1則を眺めてください。禅語録のモトモトが、すべて矛盾した問いと答えですから、ナントカ論理(哲学)的な解を得ようとしてはなりません。味気ない飴玉をしゃぶるように、禅の問答を眺めてください。トイレや仕事前、寝る前など、ホンの3分間の役立たずの坐(行)禅です。

何の取柄や、効果もない、独りポッチの坐禅こそ純禅です。以前、質問で、両手は印を結ぶべきか、両膝におくべきか・・どうすればよいのか・・とお訊ねがありました。答えは・・寝ている時両腕、両手どうしていますか・・お好きにどうぞ。無理せず、気楽に・・どうせ、ご利益(ゴリヤク)のない、ただ坐りです。

(注)坐禅のザは座ではなく「坐」⇒土の上に、人がバラバラに・・独り、ヒトリ居る状況を言います。

電磁的情報社会であればこそ「独り」であることを自覚しなければ、祈りや生活がフワフワして夢のまた夢、実地立脚しません。