一休さんとは、どんな方ですか?【元服の書㉒】

元服の書㉒ 

一休さんとは、どんな方ですか?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:おそらく・・キライな(禅の臭い)を消した方でしょう!

正月は、冥途の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし・・髑髏(どくろ)杖を手に、鈴を鳴らして、こんな文句を触れ歩いた・・と言われる一休さん

私は、どうも「・・?」です。

たぶん、後世に脚色されての伝聞となったのでしょう。

禅者/詩人 一休宗純(1392~1481)を語るとすれば・・将軍、足利義政の圧政の中、治療法のない伝染病や、テロ、クーデター(応仁の乱など)地震台風による災害・・中世大動乱の時代、悲惨な社会体制の中で真に「純禅による生活」をなした方であると思います。

禅宗、京都大徳寺の最高の地位にありながら、政財界との利権や癒着、権力にオモネル寺僧を嫌い、庶民そのままの生活で、酒や風俗店で遊びました。齢七十七を超え、住吉薬師堂で琵琶を奏でる盲目の森女との出会いがあり、その後、十一年間、幸せな同棲生活を送られました。また、愚禿(ぐとく・禿げ頭の妻帯者)親鸞の生きざまを褒めて信者ともなった・・時代の風潮に迎合しない(風狂の)禅者であり、詩人(文学者)でした。

一休さんにとって、年始(正月)が目出度いとか、一年の計が元旦にありとか・・そんな社会的評論が頭の片隅にある訳がなく、森女の膝枕でうたた寝しながら「死にとうはないなぁ・・」とボソボソ語りかけたと思うのです。

例えば、日頃の優しい配慮ぶりは、雀を飼っていて亡くなると、雀(じゃく)を釈(しゃく・釈尊)と言い換え、その涅槃にあやかって「尊林」という詩をつくって弔らった事・・その後、別の「葉室」という雅号の雀を飼う・・如き・・天地同根の一休さんで明らかです。

また号に「瞎驢(かつろ)」とありますが、これは禅・臨済宗開祖 臨済義玄と弟子、三聖との「我が正法眼蔵、この瞎驢辺(愚かなロバ)に滅却せんとは・・」の、正伝する弟子なしに死せんとする臨済の一喝問答に由来しています。

臨済禅は、この三聖で終わりとなるのか・・との遺言です。従来の文章解釈では、禅特有の貶(けな)して誉めている文句だ・・とするのですが、一休さんは、真っ正直に、禅は臨済で途絶えた・・と解釈しています。

私は、かねてから「禅」は、剣道の免許皆伝のように、師弟継承できるものではない・・役立たずの独りポッチの坐禅で、独り一人が自覚するのが純禅である・・と云い続けてきました。

釈尊以来、禅は、独り一人にあり・・「臨済の正伝は途絶えたのではない。もともと伝えるとか、伝えないとかいえるものじゃない。はじめから1点も伝えるものなどない」・・という説に賛成です。この羅漢と真珠の、年頭挨拶(禅者の至言)=臨済と鳳林(ほうりん・臨済碌)の偈のように、独り(イマ・ココ)の覚悟が、その人の生涯、あまねく禅による生活に及ばないと、自笑一声に成らないのです。

一休さんは、遺偈(いげ)で「須弥南畔(しゅみなんばん・全世界で)誰か我が禅を會(え)す・・」と書いています。

この誰も窺いしれない、厳しい「独りポッチ」の生活心情を、貴方も自分で探索してもらいたい・・と願っています。

浄土真宗親鸞二百回忌 報恩講蓮如上人から親鸞画像をもらい受け「襟まきのあたたかそうな黒坊主、こやつの法は天下一品」と画賛しています。また、国柄や身分や宗派など(一切)関係なく(ただ独りのココロによる)覚悟が大事と述べています。有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み。雨降らば降れ、風吹かば吹け・・も、禅者の一語としては覚悟が甘く、悟りの証明である印可状を焼き捨てた一休さん。ヤルことナスこと、出家の規範をはずれ(かといって、人間としての真実から外れることなく)自由、大道を歩いた人でした。

おそらく現代社会にタイムスリップした一休さんを想えば・・TVやスマホやAIなど、電磁的映像的情報に関心を示すことはなく(ラジオでニュース位は聞く程度で)マスコミや利権を嫌い、どこかシナビた地で、森女や雀やコオロギの♪🎶♫音楽を膝枕に聞きながら、人々に親しまれて暮らされることでしょう。

自分の米味噌に換えた揮毫が、現代、古美術として何百何千万に売り買いされ、住居をゾロゾロ拝観料を払って覗きまわる観光客をナント評価されるでしょうか・・聞きたいものです。

(参照)*禅僧の遺偈 古田紹欽 春秋社(1987年) 

    *一休 狂雲集の世界 柳田聖山 人文書院(1980年)

    *臨済碌講話 釈 宗活 光融館(昭和16年