元服の書㉜ どうして役立たない坐禅を薦めるのですか?

独りポッチ坐禅を どうして「役立たない坐禅」と云って薦めるのですか? 

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

人が悩み、苦しむ時、坐禅が「役立つ」ものなのか・・「役立たない」ことなのか・・本当の「坐禅」を見極めてもらうために書いています。

この娑婆(現世)の不安や悩みの解決に「役立つ」はずの坐禅を試されて、長続きせずに挫折される方がほとんどです。それなのに、どうして「役立たない坐禅」を薦めるのか・・宇宙でただ一つ、人にとって役立たない無価値な坐禅をワザワザ行うことの大事さを知ってほしいのです。

いっそのこと、坐禅しようなどと思わずに、悩みを放り投げておけばいいのでしょうが、それでいて「役立たない」坐禅とか・・達磨の「無功徳」な禅とか・・の言葉、文字にこだわり、あるいは 役立つ坐禅がないものか・・

思いあがくのが人間の業(ごう)というものです。

推奨する「独りポッチ・イス禅」は、本や学問、寺僧の教導を受けない坐禅を行うように・・との、まったく単純な話です。

とりわけ「ZEN」に関心のある外国の方には(西洋は骨の髄から哲理、物理で成立している合理的社会ですから)ゴリヤクなしの禅について納得するのは、ナカナカ難しいことでしょう。

欧米の方にお薦めできるのは、仏教学者であり禅者であった故・鈴木大拙先生の「Living by ZEN」ただ(英語版)1冊。はるばる日本に尋ねてこられても、形骸化した禅寺や修行と称する、お坊さん専門の養成道場があるだけで純禅は絶滅しています。

禅は、教えられたり、学問して解かるものではないのです。

ただヒタスラ、独り木偶(でく)の棒のように坐禅したり、自己内面に求道し続ける好奇心がなければ、悟り(発見発明)がありません。

仕事や家事をしないで、坐禅三昧とか・・出家を口実に葬式仕事とか、昔、著名な禅者がいた寺僧の(拝観料めあて)の生業(なりわい)。TVに出演してトクトクと禅を語る・・出版(文字化)や講演(提唱まで)が、禅を紹介できる限度であると承知しない禅(モドキ)者は語るに落ちた仕業です。・・千年前の禅者たちは、川の渡し守をしたり、薪を売り歩いたり、農作や大工仕事をしたり、生活の糧、生業(なりわいの為)に働いて、折々に、独りで坐禅したのです。

中には乞食桃水(雲溪桃水・ウンケイ トウスイ・江戸期、筑後柳川の生まれ。宗派に拘らず、臨済の大愚、沢庵や黄檗隠元に参じたりした曹洞禪の禅者)無宗派自由人の鈴木正三に参じて影響を受け、大仏の掃除男、駕籠かき、馬のワラジ売りなど転転と移り住み、河原の乞食になり、最後は京都、鷹ガ峯でお酢売りをして死んだと云う・・名利を捨て果てた野聖の禅者がいます。日本の禪史上、宗派・寺僧に関与せず、独り坐禅も忘れて亡くなった、極め付きの散聖の禅者と云えましょう(無常迅速・・詳しくは、ご自分でお調べください)

禅は知識や学問、先達の教導、経験話・・一切、誰にも頼らず、坐禅する中でしか発芽し、開花し大樹となってくれない、自分だけがハッキリ自覚する体験です。

よく効果・効用のない坐禅を薦める、その理由を教えろ・・とメールが来ます。

実は・・この問いそのものが答えなのですが、知識、経験が邪魔をして、ナカナカ、自分が自分に納得できません。

現代、日本でも、電磁的媒体や教育偏差値、競合格差を当然とする人が多くなって、禅でいう「如」の行為がわからなくなってしまいました。

大袈裟な言い方ですが、この日本で一人でもいい・・この地球(宇宙)で たったの独りでもいい・・ダルマのいう「無功徳・無一物」の役立たずの禅を、造作なく(臨済の言葉)行(おこ)なって「禅ニヨル生活」を為す人が出現してほしい・・と願っているのです。

私が明大生(1960~)の頃、父が戦前・戦後・・参禅の師とした故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)が 北鎌倉の東慶寺(松が岡文庫)におられた縁で、円覚寺続燈庵(故・須原耕雲老師・焔魔堂弓和尚)に寄宿。禅に関心をもち、坐禅をし、神田の古本屋で見つけた碧巌録や無門関の提唱本を、安保騒動にかまけて読み漁りました。当時、ヤルコト・・ナスコト・・冷や汗ものの、いい加減な青春時代でしたが・・後に、坊さんのトナエル四弘誓願の一語「煩悩無尽誓願断」(ボンノウムジン セイガンダン)に引っかかりました。

悩みは尽きないが、誓って断じます・切って捨てます・・という求道の誓いの言葉です。                          ところが、禅では「煩悩即菩提」(ボンノウ ソク ボダイ)といって、悩みや苦しみは、ソノママが悟り=釈尊(大覚・大慈)である・・とするのです。                             出家して迷える大衆を誓願度(救済)するべき禅の坊さんが、悩みを断ち切りたい(誓願断)と、悩みソノママが菩提(さとり)であることをゴッチャに丸めて、どうしようとするのか・・どこの誰も、この疑問を解決してくれませんでした。

仏陀の教え(仏教仏典)に嘘も方便。幼児が火宅にいて救い出す話があります。                              母親が、いきなり騒ぎ立てるとビックリして立ちすくむから、楽しく遊ぼうよとやさしく誘い出す例え話です。どうもこれは、うまく出来過ぎています。                              もし大火災であつても、そこに愛しい幼児がいたら命に代えても飛び込んで救い出すのが子を想う大慈(愛)・・母親ではないですか。火宅下にヨチヨチ、ニコニコ歩いてくるのを待つ母親などいやしないのです。

火事話のついでに・・「焼け和尚」と名がついた禾山禅鉄(かざんぜんてつ)の逸話が「禅の伝統」高橋新吉 著(宝文館出版)に書いてあります。                               伊予の大阪といわれた八幡浜市、大法寺の住職だった明治14年9月の一夜の事。火の手が本堂を嘗め尽くす中、師、越渓禅師の碧巌録(注釈・書入れ本)を須弥壇(しゅみだん)から取り出したものの、顔面、両耳焼けて瀕死の火傷で鬼の顔となって生還した。これを不惜身命というが、母親の子を想う心も、本来、そのようなものだと思います。

これとは裏腹に(二ユースで)子育てに疲れた親の虐待とか、子殺しがあり、悩みの果てが悲劇では、どうにもなりません。不審な家庭状況の場合、地域社会が問題がなくなるまで子育てを請け負い育てる仕組みが要りましょう。

煩悩即菩提が真実とすれば、誓願断とか、断捨離とか・・ゴミ箱整理の話ならともかく、禅(坐禅)では(不思議なことに)悩み・苦しみが、そのまま菩提(自覚・大慈)である・・これを達磨の道う無功徳(ゴリヤクなし)に体験しなさい・・と示すのが禅であり、禅者である・・と思います。               とにかく宗教(禅)臭きは「禅」にあらず・・です。

さらに、自覚(見性)して、どうなるのか・・どうするつもりか・・

宿無し興道と云われた故・澤木興道老師が、著作「道元禅の神髄」で述べておられる・・「万象の独露身(どくろしん)ひとり寂寥に身をゆだねる」・・役に立つも、立たないもない・・渓流の潺(せせらぎ)か・・路傍の小石になる生きざまが禅者である・・が結論となることでしょう。

 

寺僧の教導による坐禅をどれほどしても、    

それは何の役にも立ちません!

達磨・無功徳(役立たない)独りポッチ・イス禅だけが

「煩悩(悩みや不安)即(そのまま)菩提(さとり)」を

自覚させてくれる行為です。

有(会)難う ございました。(6/27 乞食桃水・追記)