◆元服の書⑤ 答えは【問い?】の中にあり!(5/2 加筆しました)

元服の書⑤ 

真の答えは、その問い?・・の中にあり!

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

Q:勉強したり働いたりするのは、

何のためですか?

Q:お金を儲けて、楽をして生きるのが,

悪いことですか?

A:昔から欧米(西洋)や中国人・・ほとんどの国で、働くことは奴隷や植民地に任せて、貴族や金持ちの自分(たち)だけが、わがままで好き勝手な生活をして何が悪い・・といった考え方、生き方をしていました。

それと反対に「禅」の世界では・・百丈懐海(ひゃくじょう えかい 720~814)が「1日作さざれば(働かないなら)1日食らわず(その日は食べない)」という、厳しい戒律を作って禅集団を引導しました。

時代は、約1200年前・・美人で有名な楊貴妃・・玄宗皇帝の頃。

その時代に対比してお話します。

唐、玄宗皇帝(35才)の頃、クレオパトラと並び称される有名な楊貴妃が誕生した1年後、彼(百丈)は誕生しています。玄宗皇帝61才の時、蜀の玄琰(ゲンエン)の娘27才。見染められて楊貴妃となります(百丈26才)・・白楽天長恨歌【春寒く華清地に浴を賜う、温泉、水滑らかにして凝脂(ぎょうし・・しっとりした体の意)を洗う】と詠じた如く、華清宮に豪遊している皇帝、取り巻き貴族。やがて・・安禄山の謀反や、道徳退廃のきわみの中で、玄宗皇帝70才、楊貴妃36才・・皇帝に裏切られ、置き去りにされ、遂に祠で首をくくって死亡、路傍の石下に埋められた・・といわれます。

当時、世情一般や仏教徒、禅僧ともに退廃、堕落はなはだしく、百丈は、初めて清規(しんぎ)を制定して、世界に類を見ない道徳実行の禅者となることを宣言したのです。

 

勉強して、金もうけして、楽をして・・人に迷惑をかけなければ、それでいいじゃないですか・・何が悪いのですか・・と、問われれば、何も答えようがありません。

 

ただし・・アナタが「人生 裸(心)で歩むべし」と、独りポッチ禅を提唱する、この私に問いかけてくる・・その問いかけ・・の火を、吹き消さないよう、大事になさってください。

「禅」は(欣求 ごんぐ)宗教ではありません。

昔から求道者は、アチコチ達道の禅者(師)との出会いを求めて行脚(旅)をし、人生とは何か・・の「問答」を行いました。

真の禅者の共通点は・・「悩みは自分(ひとり)で解決せよ」(無門関=門より入る・・これ家珍にあらず)です。見聞、学習など、頭脳や心に取り込んだものは、本当の(自分の)宝物ではない・・の意です。現代の「禅」は、寺院や僧侶、茶華道による生業(ナリワイ)手段として利用されています。例えば、一休や良寛の行跡を、観光禅としたり、集団として修行して悟りに到ろうとしたり、ひどいのは、寺僧が教導したから宗教だ・・と、求道者独り一人が、坐禅して、人生を行脚(旅)する、純禅を認めてきませんでした。

NHKですら、禅に関する放送で、どうどうと「座禅」を薦めます。

真の禅は「坐禅」・・独り一人、それぞれが、屋根のない山中、樹木の下、土や石の上にドッカと坐り、雨、風・・降らば降れ、吹かば吹け・・の覚悟で坐ればこそ・・古来から「座」と書かず「坐禅」としてきました。

たったの3分間、役立たずの「独りポッチ禅」・・思い起こすごと、独りポッチでなさってください。

自分が自分に、ひとり問いかけなければ、自分が本当に納得する答えが出て来ないのが、人間の特性(業とも宿命とも)なのです。尊敬する師や友人や、宗教や本など・・アナタの悩み、苦しみの解決には、参考にこそなれ、真の救いにはなりません。

結論は急がれないように願います。

真の答えは、必ず、そのアナタの問い・・自身の[?]・・の中にあることを自覚なさるでしょう。

 

つまらない!くだらない!・・no・・思いこそ大事な「好奇心」だ!

元服の書 ④ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

◆目的がなく生きるナンて・・

 「つまらない!」(充実しないの意)

◆何の役にも立たない、独りポッチ禅なんて・・ 

 「くだらない!」(昔の意味は京の都から江戸に出回らないの意)

◆「水」を教えたサリバン先生の指文字「Water」の働き・・

  こそ・・不思議な「好奇心」の発現!

人間には、喜怒哀楽の動物的な本能から発達した感(情)・・と、自分とは何か・・を考える知恵=理性があります。

好きだ 嫌いだは、犬猫、パンダの赤ちゃんにもあるね。

絵をかいたり歌を歌ったり、芸術や信仰やスポーツなども、心=感性でしょう。

原因を分析し、結果を検証するのを「理性」としておきます。

これは、何故とか・・どうしてとか・・学んで、研修する人間(好奇心)のある人間だけに出来ること。

役立たずとか、下らないとか・・批判、評価するのは、言葉や文字によって、比較したり分別(ぶんべつ)したり、発見発明したりすることにつながります。

じゃ・・イジメや虐待(ぎゃくたい)、暴力、戦争は、どうして起こるのでしょうか?

(どうやら、その深い震源は感情・・本能にあります)

先ほどの質問・・生きる目的がないから、つまらない・・というのなら、どんなことがあれば、つまらなくない・・生きる価値あり・・とするのでしょうか?(これは哲学です)

私を含めて大抵の人間は、この感性と理性のハザマで、なんとか心と体のバランスを、うまくとりながら共存しています。

例えば、日本の伝統、お中元やお歳暮など「これはくだらないものですが・・」と遠慮しいしい云うように聞こえますが、昔は、京の都から江戸に下る品物ではありませんよ・・と、贈り物の良さをいう言葉でした。

反対に江戸から、天皇のいた京都には「上る」といいました。

時代によって言葉は変化し、不偏(不変、普遍)の真理など、ありません。

アッ・・そうか・・人間は「言葉=文字」で考えてるんだ。

だから・・ヘレン・ケラーは、「水!そのもの」をサリバン先生から「Water」の指文字で知りました。(本質の開眼)

それには、ヘレン・ケラーの、無明・・心の闇に宿った「好奇心」が大事な役割だった・・としておきます。

さて、生きることの目的は何だ・・役立たない坐禅何故するんだ・・の答えは、自分の心に芽生えた「好奇心」・・どこからか湧いてきた・・その問いかけがある限り・・必ず、自分が自分で見つけてくれる・・(自覚)となります。

 

ですから、教育や本や宗教や親や友達や報道やスマホは、社会の多数の人たちの、共通の利便性を考えるものですから、参考にこそなれ、決して自分の「正解」を「自覚」できるような、答えにはなりえないのです。

人生・・何のために生きてるんだ?と思い、その「なぜ?どうして?」と思う、疑問が芽生えた「心」へこそ、水やりをしてあげてください。

 それは、どんな水か・・といえば、ヘレン・ケラーに施したサリバン先生の指文字「Water」のような働き・・です。

その働きを持つのが、役立たず「3分間独りポッチ禅」です。

言葉・文字 足らずですみません。

あてにならない文章ですが、ホントかどうか読み返してください。

禅者の一語「碧巌録 第56則 趙州の唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」を見て下さい。

*4月14日SAT 7:15AM 改訂しました。

有(会)難うございました。 

 

 

ZEN・盤珪の不生禅◆佛心を念に仕替えさしゃんな・・と申すことを、俗の人に説き聞かせまする!

   ◆仏(禅)心を、念(執着心)に仕替えさしゃんなと申すことを、

      俗の人に説き聞かせまする程に・・盤珪永琢

  ◆「不生禅」フショウ禅(生まれず禅)・・

私は、日本の代表的禅者に、ここで紹介する盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)を挙げます。(もちろん、白隠さんや一休さん良寛さんなど、敬愛する禅者は沢山おられるけれど)盤珪さんほど、解かりやすく禅を説かれた方はいません。それも一般庶民に対しての提唱です。昔、北鎌倉の円覚寺、続灯庵、故・須原耕雲老師(焔魔堂弓和尚)に寄宿、参禅していました。その近く東慶寺、松が丘文庫におられた鈴木大拙先生の著作に、盤珪さん特集があり、不生にルビが附ってないので、どう読むのかわかりませんでした。般若心経の不生不滅(盤珪禅では、生まれてないから、不滅は不要)に由来するのですが、あまりに単純なので、よく言えば知的批判の旺盛な、ズバリ言えば、口だけ達者な生意気な若者・・であった私には、ケッタイナ昔の坊さんの印象でしかありませんでした。

ところが、会社仕事の合間、3分間独りポッチ禅を工夫しているおりおりに、また、無門関や碧巌録の意訳を志しはじめた60才の頃から、盤珪の不生禅が、次第に心の片隅で、フツフツと醸成されてきたのです。

この2018(平成30)年2月、神田の古本屋で、盤珪禅師法語集、藤本槌重編著(昭和46年(株)春秋社刊)を買い求め、この奉魯愚に紹介するべく読みました。身に染みて再読しました。

*以下、文中「仏」の字を、悟り(覚者)=「禅」と置き換えています。

*平語、民衆の言葉そのままに禅を説かれています。

法語/三p186=41

「人々 皆、親の産み付けてたもったは、不生の仏(禅)心一つ。餘の物は産み付けやしませぬわい。不生なが禅心、禅心は不生にして霊明なものに極まりました。不生で一切事が調いますほどに、皆不生の禅心で居さっしゃれい。不生の禅心でござれば、今日の活禅(禅による生活)でござるところで、不生で居ますれば、迷いようもござらぬ程に、迷わにゃ悟りは要りませぬ。直(じき)な事じゃござらぬか。

また、不生なものは、不滅なものに極まりました程に、身共は、ただ不生とばかり説きまして、不滅とは云いませぬ」

p187=42

「皆、禅心を餓鬼(がき)に仕替え、修羅(しゅら)に仕替え、あれに仕替え これに仕替えて、不生で居ませず、迷いますところで、凡夫に成りますわい。身共がもうす、この仕替えぬ、と云うが肝要な事じゃと思わっしゃれい。

p187=43

「仏祖と申すも生じた跡の名でござれば、不生な場からは第二義、末(すえ)な事でござる程に、不生で居ますれば、仏祖のもとで居るというものでござるわい。至って尊いことでござらぬか。不生決定(ふしょうけつじょう)しますれば、法 成就ともうすものでござるが、その決定しました事は、我より外の人は知りませぬ。人に知らせようもござらず、また人の知ろうようもござらぬ。また人の知らぬとあっても、苦しゅうはござらぬわい。不生決定の場は仏祖も不識じゃわい。どなたに依らず、不生な事を決定めさるれば、骨を折らずに畳の上で、心安う活如来(禅による生活)で居るというものでござるわい」

◆ただ「不生」と決心、覚悟すればよいのだ。昔、禅がインドから中国に渡って来た頃、この不生禅は盛んだったが、唐代、日本に渡来して、何時しか消えてしまった。今、私(盤珪)がこれを再発見して話している。迷いは仮に起こり、仮に滅する、実体のないものである。禅心は不生だから、少しの念もない。だから迷いもない。迷わないのに悟りたい・・とは無益なこと。不生は自知冷暖・・「自ずから冷暖を知る」までのことじゃわいの・・と道(い)う。(現代でも、江戸初期の庶民の言葉が、直に心に響いてくることを願います)

「自分から念を生じ、知恵才覚、利根を出さいでも、万物はそれぞれに、自ら通じ別るるは、霊明なる禅心は不生にして、事事物物がそれぞれ埒(らち)があくということを、深く信心決定して肯(うけが)はしゃるまでの事でござる」との仰せなり。

・・解かりやすいでしょう・・もう一つだけ・・坐禅して悟りを開こうと思うのは大間違いだぞ・・と警告しておられます。

また、おりおりに盤珪さんの法語をご紹介しましょう。

はてなブログ「禅者の一語・・碧巌録意訳」「禅のパスポート・・素玄居士の無門関 意訳」おりおりごらんください。

◆元服の書 ③ 悩むなら悩む間の3分間、独りポッチ禅でもしてみるか・・

元服の書 ③ *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

この禅語録(禅者の一語/禅のパスポート)意訳・・独りポッチZENの参考にしてほしいだけ・・どうぞ、仲間をつくらず、批評をせず、独りポッチの坐禅の礎にしてください。

 

坐禅を、集って行うのはお薦めません。釈尊であれ、達磨であれ、盤珪良寛であれ、独り一人、それぞれの禅機から悟りにいたっています。よく禅寺(僧堂)で師家方の指導で、集団の雲水さんの坐禅を見ますし、一般の方々の坐禅会や、写経会などありますが、私は、繰り返して言いますが、お勧めしません。

どうしてか?・・禅は、独りだけの坐禅の自覚(直観)でなされるものですから、誰かの指導とか、教示とか、知識とか、仲間とか・・周囲へのこだわりがあればあるだけ、妄想(迷い)が湧きます。まして社会は、基本的に、国家、会社、社会そのものが利権であり、家庭の夫婦、親子ですら、動物的本能に根差した、自己利権を根に持って生きている動物です。欣求宗教、哲学と言えど、個人と社会の関わりあい・・葛藤(かっとう)軋轢(あつれき)を解決できるものではないのです。制度や仕組み(社会)の中に生きていると、どことなく落ち着いた気がするものですが、スマホをピコピコしている間ダケで、決して本当の「安心」にいたりません。

まして、坐禅は、それを行うことで集中力が醸成されるとか、意思力がつくとか・・何か効用効果が出てくるとか・・そんなご利益(ごりやく)を期待しても、実際の役にたちません。

もし、何か成果があるとすれば、それは禅ではないのです。肉体的、精神的鍛練や、社会的な保護の中にあるだけにすぎません。

むしろ、何の効果効用を期待しないし、できない独りポッチ禅であればこそ、アナタ独りの本当に大事な行いなのです。

タッタ3分間、独りポッチで、ゆっくりした1呼吸10秒程度の数息で18回・・ヒト―ツ・・フターツ・・と数えるだけの坐禅・・目を半眼にしてイスに姿勢を正して坐るだけ・・寝る時の寝禅、トイレの禅、お昼の休憩禅、通勤電車中の立禅・・出来る時に行ってみることです。何かに悩んだり、腹が立ったり、苛立ったり、気に入らないことが起こったり(思春期はとりわけチャンス)そんな時こそ、アナタの心は、タッタ3分で良い、椅子やトイレに坐ろうと、芝生や布団に寝ようと、タッタ呼吸18回のZENをやってください。簡単でも、ナカナカできませんよ。

出来ない時でも、失敗したな・・の想いは捨て去ること。

寝禅など、慣れれば、すぐに寝入ってしまいZENにならなくてよいのです。それでいいのです。コダワリが一番、禅に良くないのです。テレビやスマホ・・映像や音楽、雑音・・お線香や念仏・・みんな「3分間独りポッチ禅」には要りません。

釈尊(仏教)は、その教えを広める前、長い間・・独り坐禅をされて、暁の明星を看て大覚されました。

禅は、哲学や宗教でありません。禅は、何時も、どこにでも独り一人の中に、チャンと・・あります。

(昔は、圧政を逃れた寺僧の生業ナリワイの中で継承されましたが、今や、観光禅になりはて、禅モドキの利権になりました)

損得ないのなら、無駄を承知で、3分間だけ、やってみようか・・と思う・・そこにのみ、本当のZENがあるのです。

気づかないだけですから・・。(次回、盤珪さんの「不生禅」を紹介します)

折あれば、千年昔の禅者たちの生きざま語録・・はてなブログ「禅者の一語」「禅のパスポート」ご覧ください。

元服の書②「喫茶去・・キッサコ」

元服の書② はたして卒業証書で「アンパン」は買えるか?

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

書写山(しょしゃざん)の写僧正(しゃそうじょう)、茶を点(たて)て飲みたくて・・お茶たちょ茶たちょ、チャットたちょ、茶たちょ、青竹(あおだけ)茶筅(ちゃせん)で、お茶たちょ、点(た)ちゃ】

江戸時代1725年頃こんな言い回しが歌舞伎で流行りました。

男女間の愛情や、性の問題・親子間・学校の虐待、いじめ・・禅の語録には、どのように解決するべきか書いてありますか?

結論=ありません。昔は皆、貧しくて助け合わねば生きてゆけなかったようです。

でもヒントは「イマ・・ココ」が大事と書かれています。

禅語「喫茶去」キッサコ(お茶でもどうぞ)にちなんでお話しします。

この茶飲みごと・・これは言うは易く、行なうに難(かた)きことです。

禅に・・「生死事大(しょうじ じだい)無常迅速(むじょう じんそく)光陰可惜(こういん おしむべき)時不待人(とき ひとをまたず)」の言葉があります。

覚者・釈尊仏陀)の教え・・宇宙で唯一つの遺伝子を持つ(唯我独尊)若い貴方にも、老病死苦は必ずやってくる。

しかし、努力していても・・どうして安らかで幸せな人生にならないのだろう・・愛や性の問題や、虐待、いじめ、試験・・など、あるいは、事故や災害など、自分一人では解決できないことが襲い掛かってくる毎日・・老病死苦の悩みは「今・・此処(個個)」に徹して生きることでしか救われない!・・禅は・・悩みや苦労を、そのまんま、ひっくり返して 安心やピチピチした生活にしてしまいます。

でも、これは言うは易く、行うことは大変むずかしい。

 

たいていの人は・・おそらく3~40年、禅に関心を持ち「3分間独りポッチ禅」を提唱している、この私を含めて、大悟徹底できる人はいないのでないか・・と思います。

いるとスレバ・・例えるなら釈尊やキリスト、親鸞さん位かな。

もし、路傍にお姿を拝見したら、そのオーラとやらに打たれてヘナヘナと坐り込み、薄らハゲジジイの私はボロボロ泣いてしまうことだろう(モチロンその他に尊敬する人はいっぱいいるが・・)

 

達磨(だるま)さんが、紀元520年頃、インドから中国、広東に海路、上陸して「禅」を伝え・・梁の皇帝(武帝)に語った・・その最初の言葉は・・ZENは「無功徳(むくどく)」である・・つまりご利益(りやく)、効能はありません・・だった。

ズバリ・・経文や書物は薬の効能書きにすぎない。いくら効能書きを読んで知識を増やしたところで病気は治らない(風邪をひいたら、温かくして寝ているのが治療に一番だそうだ)その病気が治ったら、薬も効能書きも、もう役立たずです。学校の卒業証書なんか、見せびらかしてもアンパン1個買えません。

 

このように、解かっていても心の問題はナカナカ解決できないのは・・どうしてか。

それは考えや想いに、比較や価値をつけすぎて、自分が自分を「裸の王様」に仕立て上げているからです。

例えば、餓死する子供が何万人もいて、それでいて、ICBMや核実験を繰り返す北朝鮮将軍様がうらやましい・・と思うのなら、この奉魯愚、役には立たないでしょう。

価値とは何だ?真実とは何だ? 

それは・・アナタが自分一人で見つけ出し納得しないと自分の身につかないのです。

学校の勉強の大半が、記憶させることが教育だと信じている先生がいますが大間違い。記憶や分析はPCやスマホの方が得意です。アナタは、そんな考えの、他人任せの勉強はほどほどにして、本当に自分が好きで、打ち込める勉強や仕事をしてください。

学問は、文字通り「学ぶ」こと・・と「問う」ことの相互作用です。学学=ガクガクばっかり・・問うこともできない・・問問=モンモンとした、息苦しい勉強は学問ではありません。ホントに「学と問のできる」良い先生を見つけて、イロイロ質問しながら楽しく勉強のレベルをあげてください。

好きこそモノの上手(じょうず)なれ・・ですヨ。       

◆般若心経の写経は、効能書きの筆写です。その時間だけ、集注して救われた気がしても、その後、チョット試験の結果が悪いだけで、もう世界が絶滅する位の落ち込みようです。

「無心」になる・・心の解決法(手立て)は、全く役立たずの「3分間独りポッチ禅」だけです。

言うは安く・・といいましたが、この外郎売り・・スラスラ3回続けて言ってみてください。

◆【書写山(しょしゃざん)の写僧正(しゃそうじょう)、茶を点(たて)て飲みたくて・・お茶たちょ茶たちょ、チャットたちょ、茶たちょ、青竹(あおだけ)茶筅(ちゃせん)で、お茶たちょ、点(た)ちゃ】

歌舞伎十八番 外郎売(ういろううり)早口の一部・・三百年ほど前の、2代目市川団十郎・・凄い発想、創作力に脱帽します)

 

どうですか・・自分の口先、滑舌(かつぜつ)ひとつ・・ナカナカ簡単にはいかないでしょう。

それでは・・私も「お茶たちょ、茶たちょ」で、お茶でも飲むとしましょう。

・・アナタの質問の答えになっているはずですが、どうでしょうか。

 昔、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん 778~897)という禅者は、どんな悩みの求道者が訪ねてきても「マアマア・・お茶でもおあがり」の一語で済ましてしまったそうです。 

有(会)難うございました。 

 

◆元服の書 ① *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書きました*

         ◆arutoomouna・・親と金 !

                           naitoomouna・・運と災難!

仕事の時や、寝る前など・・3分間独りポッチ禅では、数息や公案を、どのようにして思いやれば、よいのですか・・

 

◆不安な心をなくして、安心な心になりたい・・

受験に失敗したくない・・スポーツで入賞したい・・

それぞれ人は、生きる出来事で、希望や欲望や悩みは、すべて、そ

れぞれ「独り」の行いです。誰でもが同じとか、等しいとか・・そ

んな出来事があるはず・・と思いがちですが、一切ありません。

どだい貴方はアナタを構成する遺伝子からして、この広い宇宙の中

で、ただ一つのかけがえのない「生命」なのです。

(科学的にも、哲学的にも。宗教的にも)

 

◆「赤信号、みんなで渡れば怖くない」・・これが共同体社会や想いの根源!

それを、さもさも共通性をもたせたり、愛憎に度合いも持たせたり、金銭や、偏差値などの数値の比較をして、優劣をつけ、一般化、常識化て・・それで安心したり、悩んだり、いじめたり、社会的な制裁をしたりします。いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」方式です。(教育も画一的になりました。昔の松下村塾や寺小屋などのシステムが、個性を重視していると思います。元服で12歳程度の少年少女が、社会の恥とならないよう「死」の覚悟=切腹の真似事を、親兄弟の前でして巣立ちしました。  

 *お父さん方・・お母さん方・・昔は子供の2人に1人は、ペニシリンや 

  救急車もない、病気や事故で、すぐコロリと死んでしまう暮らしで

  した。今より愛情豊かに子育てしています。子供の教育は、学校の仕

  事ではなく親の責任ですよ(坐禅は親御さんが先に行う必要がありそ

  うです)

それで・・まずアナタに云いたい・・宇宙でただ一つの遺伝子を持つ「天上(てんじょう)天下(てんが)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」という・・言葉の意味が(仏教、釈尊だからではなく)涙が出るほどに確信できるまでは、教科書や本、新聞など活字媒体を参考にするだけにして・・(漫画やスマホ、PC検索、親の言うことなど・・など、二の次の意見参考にして)自分の生き方や、思うことどもを、まず独り自分で見返すことです。

アナタが本当に、やりたいことの為に努力する姿は、必ず、認めてくれる人たちがいます。

 

◆不変の社会的な真実とは【あると思うな「親と金」・・ないと思うな「運と災難」だけです!

この昔からの伝承がアナタの「独りポッチ」を支える心の支柱となりましょう。

現在、中学生や高校生の貴方には、青春のワガママ(自分の思うままになるの意)自分中心の疼きの中で生きているので当然ですが、頼りとする親や金は、有るに越したことはないとも言えます。でも、時に、自分(独り)の大切な人生を狂わせたり、足かせになったりする根源なのです。むしろ幸運や不運は、まさか自分にあり得ないと思うこと(ラッキーより不幸な出来事の方)がアナタに襲いかかる方が多くあります。幸いにも、今の日本は、文句を言わなければ、食べて暮らせる条件がそろっています。必ず、苦労や悩みに耐えられるアナタのはずです。

◆アナタが「孤独・・独りポッチ」を感じた・・その時こそ・・アナタだけの遺伝子が、密かにアナタに訴求しているシグナルです。それを、しっかりと受け止める受像装置が大事です・・それが「独りポッチ禅」です。

お昼の時間帯では、仕事や勉強、スポーツや趣味など・・当面していることに一生懸命にやってください(昔は一所懸命と書きました・・今、していることに集中して努力するの意)

途中、イロイロな思いや、イライラする気の散る出来事があるでしょう。無理もありません。独りポッチ禅を提唱している私ですら、仕事でも、夢の中でも「アアだ・・こうだ」と振り回されています。実はそれが当然なのです。それでもいいのです。悟れば、無念無想・・禅者は快川和尚(かいせんおしょう・恵林寺)のように「心頭を滅却(めっきゃく)すれば火 おのずから涼し」と頌(じゅ)して、織田信長に火をかけられた本堂の真ん中で、坐禅を組めるほど人間ができあがっておりません。むしろ、あまりの熱さに、師と殉死しようとした弟子の幾人かが逃げ出したので、この有名な禅語「火もまた自ずから涼しい」の一語が伝えられました。わが師、円覚寺、焔魔堂の弓和尚と言われた、故、須原耕雲老師は、弓を引く三分間、禪心であること・・動中の禅が、ソンナに容易に出来るものでない・・と言われたことがあります。南禅寺の故・柴山全慶老師は「自己を境に投じて、境中に自己なき」を「覚(悟り)」とする・・と「十牛図」の解説で言われています。

◆大事なのは、静中の坐禅や動中の工夫で、雑念が起り妄念が起り、連想、増幅するのを「こだわらず・・そのままに放置して」・・放っておくこと・・です。

 

連想して次念を振幅、増幅させないことが、一番、必要なことなのです。迷いと悟りの差は、自分と仕事、勉強。公案と自分などがバラバラになって2元的に相対してしまうことが「迷い」なのです。いたるところ、3分間独りポッチ坐禅が、こうした迷いや悩みを消滅してくれる・・実地訓練です。

水泳でも、本や、畳の上でいくら勉強しても、実際は、水に入って自分が努力しなければ上達できません。先生や指導者がいくら言い聞かせても、何事も「まずアナタ独りの覚悟」ですよ!

要は、うまく出来ないことを、あれこれ言い訳する自分に気づくこと・・それがポッチ禅の「何にも、これっポッチも役立たない坐禅」の押さえどころです。何年何十年も、3分間ですらナカナカ坐禅出来ないでいる・・その自覚が・・般若心経の「顛倒(てんどう)夢想(むそう)、究竟(くきょう)涅槃(ねはん)」・・色即是空(しきそくぜくう)の真意であると思います。

くれぐれもスマホに現(うつつ)をぬかす事のないよう、妄想を振幅させない厄除けとして、碧巌録や無門関、私の奉魯愚「禅者の一語」を活用してください。

*禪、臨済宗 恵林寺・・山形県甲州市 風林火山の甲斐、武田信玄菩提寺・・         

快川紹喜(かいせんじょうき 1502~1582)織田信忠の軍による焼き討ちにあった際の禅者の一語(偈)「心頭を滅却すれば・・」は、中国の、誰かの公案の頌の一部を、この時に引用した、いわゆる中国の禅者の(頌・・禅境を述べた詩)コピペであるが、火定(かじょう)・・火あぶりの最中に、この一語をもってしたのは、さすが快川紹喜である。コピペもこれ位の覚悟があれば本物だ。

年取ると、ソンナ云く因縁の頌、出典を忘れてしまういずれ調べます。

*ついでに思い出話をひとつ・・円覚寺に寄宿して大学に通っていた昔、松竹映画撮影所(大船)で笛吹川(1960年。深沢七郎原作モノクロ)・・木下恵介監督の撮影で、この快川和尚と弟子たちの火定シーンに、修行中の雲水たちの応援出演の依頼がきた。これは修行のチャンスとして、本堂セットの回廊に、ズラリ、本物の禅僧が居並び坐禅三昧になる中、火がかけられ、監督のカット、OKの声で消火される手筈が整えられた・・のだが、イザ本番・・スタートの声がかかり、居並ぶ坐僧の周囲に火がつけられると、あまりの熱さにたまらず、あっという間に本物の坐禅の雲水たち、逃げ出していなくなった。後で寺に帰って、ススで汚れた雲水さんたち、昔の快川和尚以下、弟子達の根性(覚悟)にひどく感心していた。その頃の管長は朝比奈宗源老師。当時の修行僧たち、今まだ存命しているはずだが、どこぞの禅寺で、どんな顔をして、公案心頭滅却」や「洞山無寒暑」を教導、提唱しているのだろうか・・何故か苦笑いしたくなるような・・思い出である。(2018年1月29日追記)

*わかりました。碧巌録 第43則「洞山寒暑回避」評唱にありました・・黄龍の死心悟新和尚、拈提していわく・・「安禪は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」・・出典 詩人、杜荀鶴の転結二句。起承の二句「三伏 門を閉じて一衲を披(ひら)く、兼て松竹の房廊を蔽(おお)うなし」に続く。(加藤咄堂先生 碧巌録大講座 第6巻 昭和14年(株)平凡社刊)

*奉魯愚「禅者の一語・・碧巌録意訳」「禅のパスポート・・無門関(素玄居士提唱 意訳)」おりにご覧いただくと幸甚です。

     有(会)難うございました。(2月1日 タイトル「元服の書」その①としました) 

 

碧巌録と無門関、同じ意訳でも、内容や言い方にヒドク差がありますが、どうしてですか

碧巌録には、本則中に垂語(すいご)偈頌(げじゅ・・内容解説、短い注意、感想)とか、評唱(ひょうしょう)著語(ちゃくご)下語(あぎょ・・寸鉄の批評)など、後の世代の禅者たちの批評がいっぱい書かれています。学問として「禅」を学ぶ人には、ワイワイと語り合うのに役立つでしょうが、純禅に、誰彼の学説、批評は不要です。

普通の生活の中の坐禅の時に、かえって想いや思考が増幅して迷います。

また禪を誤解する元になりますので、できる限り枝葉は切り捨てました。その結果、随分と見晴らしのよくなった禪(公案)の紹介ができました。また、「無門関」は、昭和初期10年代に活躍された素玄居士(高北四郎)提唱の意訳です。

はてなブログ 禅のパスポート・・紹介中)

戦前・・「禅は宗教ではない」・・と喝破された素玄居士絶版の1冊(狗子堂発行、昭和12年東京市王子区)を、出来るだけ原文のまま、直に、味わってもらいたくて紹介しています。本来、禅を提唱する者は、自身の「見解(けんげ)」=悟りの境地を1則ごと披露するのが本当です。これがいつの間にか、師家と二人きりの密室に参じて確認しあうという秘密の相伝となりました。寺僧組織の運営事情もありましょうが、偽禅の横行する処となり、今や、祖師がたの書画、禅院拝観料で成り立つ観光禅のありさまです。

自分は,なぜ生まれたのか?

自分の価値とは何か?

死ぬということはどうゆうことか・・中学や高校生に解かる「禅」について千年前の求道者、必携の書を意訳しようと思い立って、出来る限り原文の味付けにこだわる次第です。ですから、アナタの好みや、寺僧、師家の解説に重点をおきません。しかも、この「碧巌録」と「無門関」は、読めば人生の悩みが解決する元服の書ではありません。たとえ3分間でも「独りポッチの坐禅」を続ける気付け薬にすぎません。それも、本当は「役立たず=無功徳」であること・・その覚悟さえあれば、坐禅は・・独り・・君のものです。

そんなつもりで、お愛想なく(そっけなく)意訳しています。

有(会)難うございました。