坐禅で大事なことは何ですか?

禅とは?・・シリーズ」やさしい坐禅の仕方⑵ 元服の書NO㊳

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

坐禅で一番大事なことは息の仕方ですか?

それとも坐り方ですか?

公案を拈弄(ねんろう)することですか?

何が大事・・と問われれば、呼吸です。

     ただ独り(イス)に坐って、ただ息をすることです。

        これを役立たず(無功徳の達磨)坐禅といいます。

お寺の坊さんになる修行なら ともかくも、現代の青少年に、坐禅の坐り方・・結跏趺坐(けっかふざ)とか半跏趺坐(はんかふざ)とか・・をさせて、イヤになって止めてしまう例があります。アメリカの青年が禅寺にきて坐禅した。

それが・・わずか数分で「足が死んだ」と叫んで道場を飛び出し、戻って来ませんでした。

まったく愚かな教導です。

足の組み方が間違っていたにしても、イス禅や寝禅したりしても、全部・・坐禅の内です。

むしろ問題なのは、坐禅や瞑想は本などを参考にして、自分一人でできるのに、わざわざ知人・友人を誘ったり、何か資格や免許のあるかのような仕組みの・・教導を求めたり、指導料をとったり、取られたりすることを、当然とする習慣が良くないと思います。

坐禅や瞑想で、迷いや不安感がなくなり、集中できて時間を忘れた・・と言われるかもしれませんが、三昧(ざんまい)の境地など、別段、誰から教えられなくとも、面白い(楽しい)事や、何か役に立つ事をしている時は、誰でもソンナ心境になることができます。

職人の仕事や茶華道などの芸事に限らず、アスリートや、幼児のママゴト遊び・・パチンコ、賭博だって三昧の境地に入って出来るのです。

 

坐禅や瞑想は、もともと三千年前から、インドが発祥の地です。

要は「独りで呼吸を整える」事が大事です。

また、息という字は「自(おの)ずから」の「心」と書きます。おのずから・・とは、貴方自身が、計らいや造作しない、妄想のない状況です。終日働いていようが、遊ぼうが、坐禅・瞑想しようが、寝ていようが、自然(じねんと呼びます)のままに「数息(呼吸を数える)」が生(な)されれば・・道を求める者、まず初め、形を忘(わ)する・・の境地でしょう。

ありていに言えば、心臓や呼吸が、頼みもしないのに勝手に動いている・・このことに、誰かの教導がナンデ要(い)るのでしょうか?

まるで「青信号!皆で渡れば怖くない?」

心的自己免疫過敏症と言うべき出来事です。

 

私は、眼を閉じる「瞑想」をすると、かえって妄想したり、眠くなるので、眼を半眼にしての独りポッチのイス坐禅をお奨めしています。息は1呼吸10秒程度。「ひト~ツ・ふタ~ツ・・むぅ~ツ」・・と数え、3回繰り返す。計18回、約3分間ポッチの数息(スウソク観)でOKです。これを寝る時、起きる時、トイレの時、電車や信号待ちの時、働く前の時、授業の前や、スポーツの前、休憩時間ETC・・おりおり気づいた時にやってごらんなさい。

3分間独りポッチのイス坐禅は、やらねばならぬ・・とやっては長く続きません。

フト・・「あ、そうだ」と気づいた時に無理せず行うので充分です。

貴方の心が「あ、そうだ」と気づく・・

これが大事な「ZEN」への入り口(玄関)なのです。

何べんも何べんも、何の効果効能がなくとも、気づいたら、すぐにしてみることです。

3分間・独りの場・数息坐禅のTPOを弁(わきま)えましょう。

【附記】熱帯のインドで発生した坐禅(瞑想)は、涼しい木陰の大地、石上に、独り坐って「静慮」しました。

釈尊は六年にわたる入山。苦行してやせ細り・・ヨウヨウに下山。スジャータの山羊乳(施こし)を受けました。そして菩提樹下、体調を整えなおして、安らかに坐禅され・・明星の輝きをご覧になって大覚(見性・悟り)したのです。

心体ともども(コンデション)が、ベストでないと、正観できないとされたのです。また、赤道直下、日夜ともに暖かかければこそ、大地に直に独りが坐す・・坐禅が出来た訳です。

日本のように雪が降る国で「足が死ぬ」ような・・我慢大会の修行は、坊さん養成道場に任せて、関わらぬようにしましよう。

坐禅は文字通り・・人が土の上に、バラバラ(独り)に坐る姿です。屋根のある土間に座る「座禅」・・新聞や本で紹介される「座」の字は、本来の坐禅にふさわしくありませんので、私は採用しません。

もともと・・坐禅も瞑想も、三千年ぐらい前(仏教以前)に、数字「ゼロ」を発明した熱帯のインドで行われた整体静心の方法でした。

釈尊は、大悟の後、仏教(悟者/覚者の教え)を行脚、布教されましたが、禅については教外別伝(不立文字)として、独り・・迦葉尊者に付託されたのです。文字でも言葉でも表現、解説できない「ZEN」は、海路、ダルマによって中国にもたらされました。

(一説に彼は仏教宗団の誰かに毒殺されたといいます)

中国の禅者たちは、はじめ剃髪もせず、道者と呼ばれて、世の為、人の為、働いておりました。禅には「作務(さむ)」・・住む寺を普請(土木工事)したり、農耕、牧畜したり、生活手段(生業ナリワイ)として働いた・・ことが特筆されます。共産主義の「働かざる者、食うべからず」ではなく「一日、作(な)さざれば、一日食らわず」百丈懐海(720~814)の如く、自主的に、働かないのなら食べないおこう・・とする労働の尊さを大事としたのです。

その後、日本に伝播した禅宗は、すっかり宗教、教団に取り込まれて、今は観光禅に落ちぶれてしまいました。釈尊、迦葉~達磨~以来、一休、良寛など、ひとり独りの坐禅をもって発露したZENが、寺僧の生業と化してしまったのです。

これからのAI・・電磁的社会では、働く独り一人がバランスのとれた心体ともに免疫力を持つことが大事でしょう。体の免疫のことは学者の先生にお任せすることにして、心の免疫は「無功徳(役立たない)達磨禅」・・独り坐禅が担当することになる・・と思います。

               有(会)難とうございました。

 

元服の書㊲ 子供に坐禅を教えたいのですが・・

小学の子に「坐禅」をさせたいのですが・・ 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・問いに答えて書いています

まず、お母さんに対して厳しく言いますが・・無理です。

母親のワガママな願いを、子供に押し付けてはなりません。

お子さんが、おいくつなのか・・ワカリマセンが・・スマホやTV、ゲーム、PCではなく・・面白く関心を持つ遊びやスポーツなどさせて、一心に打ち込む姿を見守ってあげてください。

坐禅にせよ、瞑想にせよ・・基本は眼を半眼にしているか、閉じているか・・の違いですけれど・・私の友人知人100人の内、僅か3分間ポッチの独り坐禅を、10年間・・続けることができた人は・・1人か2人・・いるかどうか疑問です。ナカナカ簡単なようで難しいのです(息するのは どなたも気にしてませんが、意識すると、トタンに苦しくなります)

とりわけ欣求宗教ではない禅・・無功徳(役立たずの達磨)禅は、寂寥(せきりょう・孤独)を感じる人でなければ続けられません。

貴女が瞑想(坐禅)を、どれだけの深まり(禪境)で体験されているか知りません。けれども母親だからといって、どんな出来事でも、我が子まで道ずれにしてはなりません。

時に・・子に学び、教えられることが多くなった今は電磁的競争社会です。

例えば、幼児のママゴト遊び・・夢中で遊びます。夫役の男の子は、妻役の女の子ほど、アドリブの効いたセリフと仕草はできません(社会に出て働く男のイメ―ジが湧きにくいのです)。

妻役は、日頃の実際の家庭での生活を真似て、ママゴトと同じような生活を演じているか、または、かくありたい・・とする想いがそのままに、自由にイキイキと表情されている様子です。

 

映画やCM制作者や出演者の間で「子供(ジャリ)と犬猫には勝てない」とよく言われます。動物や子供たちの演技は、素直でアリノママ・・表現ではなく、心(情)が自然と表にでてくるものだから【表情】に引き付けられ、注目されるのです。

この純真な生活行動・・こそ、現代の大人たちが「表現・造作」ばかり作為的にすることで見失ってしまった【人間らしさ】でしょう。

 

最近 見かけなくなった・・公園のカクレンボで・・「ご飯ですよ」・・と母親が呼びかける風景・・ご飯を犠牲にしてまで遊びたい・・そんな遊び心を・・私たちは、何時、何処で消滅させてしまったのでしょうか。

 

今年は、2度目の日本でのオリンピックの開催です。

若い・・といっても、まだ少年少女としか言えないような子供が天才的な特訓、教導を受けて、脚光を浴びる時代です。

ソンナ優勝とか・・金メダルとか・・勝て!負けてはならぬ!の大人の競争、比較検証の社会を、進歩とか未来社会とか言ってソソノカスのは いったい誰なのか・・教えてほしいと思います。               

 

いや・・それよりも・・価値がありますとか、金や権力が得られますとか・・アナタは「何のために生きるのですか」とか・・お為ごかしに宣伝利用されるのはゴメンです。

 

千年前の白拍子の歌謡に・・【遊びをせんとや生まれけむ・・戯(たわ)ぶれせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ、動(ゆ)るがるれ】

梁塵秘抄」リョウジンヒショウ(1180年頃、平安末期の今様)

「人は遊びたいから生まれてきたのだ」とする興趣の湧く處・・千年前・・夢であった「遊び社会・・他の人が楽しく・・役立つように働ける社会」の実現こそ 行政に限らず、私達(独り一人)が 努力していくことだと思います。

しつけは大事ですが、親子もろとも、モットもっと、おおらかに暮らせる社会でありたいと願っています。

話が横道にそれました。(大事なことですから次回に繋ぎます)

独りイス坐禅は、余分なことを思わず、いつの間にか、数息(観)を忘れて(スウソクの)呼吸をしている・・仕事や勉強中とか、通勤中とか・・生活の中で、そんな【息する・・字は・・自然に心が・・落ち着くと書きます・・そんな呼吸の】状況に進化(シンクロ)なされるように・・。

有(会)難とうございました。

 

 

【犀(さい)の角(つの)のように、ただ独り歩め】・・ブッダのことば

 年末・年頭 所感 

はてなブログ・・禅者の一語(碧巌録意訳)/禅のパスポート(素玄居士提唱「無門関」復刻意訳/禪・羅漢と真珠(禅の心、禅の話)

・・この奉魯愚(ぶろぐ)は、2019年12月28日~2020年1月5日間は、一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」にあやかって、菜根譚(さいこんたん)花看噺で通します。

半開(花は半開を看るべし)菜根譚 洪 自誠

花看半開   花は半開、清楚を看るべし・・

酒飲微酔。  酒はホロリと酔うほどにすべし・・。

此中大佳趣。 此の中にこそバランスのとれた風流がある。

若至爛漫モウトウ もしも酒乱泥酔の輩と一緒の花吹雪なら、

便成悪境矣。   花と酒 ともどもに最悪・・お断りだ。

履盈満者    えいまんの(みちたりた)者は 

宜思之。    今が看脚下だぞ。

       *モウトウ・・酉に毛。酉に匋と書く・・酒に憑りつく、アル中の意。

本年は・・はてなブログ計23149回の閲覧(アクセス)と☆86をいただきました(2019年12月28日19;30PM現在)

☆を沢山いただきながら、私がPCの使い方が未熟なため、お礼やご返事もままならない点、お許しください。

また、禅や坐禅のご質問には、ナニブン、禪は宇宙の中で役に立たない価値なき出来事ゆえに、貴方ご自身で見性(自覚)されること・・のみが解決法です。

ご参考に、碧巌録や、終戦前、真っ当な無門関を提唱された素玄居士の復刻・・各則の見解(けんげ)頌(禅機・禅境)など、禅者の風流な生活(行為)を紹介している次第です。

また、千年前の禅者と面談できるよう意訳に努めています。

ご覧になった禅語から【!・・?】と感じられた一語を 独りポッチ(3分間)イス坐禅で、思い返し、考え返してください。(これを拈弄/ネンローと言います)

禅の公案(問答)は、いずれも、異次元から答えられたように矛盾に満ちており、論理的心理的、哲学的科学的な正解はありません。これが正解だと言えば言うだけ、書けば書くだけ、間違いや誤解が増えるだけなのです。

釈尊ですら・・生後7日に生母を失い、ヤソーダラー(妻)との間に、結婚13年目に生まれた男児に「ラーフラ」(サンスクリット語で 障り。悪魔の意、漢字で羅睺羅(らごら)と名付け、子捨て(家出)しました・・その後、独り山に入って、6年に渉る苦行の後、菩提樹下、明星の輝きを見て悟りにいたる・・ソンナ苦悩、行脚の生活が背景にあります。

当時(2500年前)の平均寿命は30才前後。縁なくば、死んでも不思議ではない年齢でした。

後に羅睺羅は、仏弟子となったと伝えられています。

その因縁、由来はつまびらかではありません。

(山折哲夫著「ブッダは,なぜ子を捨てたか」集英社新書

更に1500年前、仏教伝来の最後を飾って、はるばるインドから中国に渡航して禪を伝えた菩提達磨にせよ、その後、禅語録に登場する中国の禅者たちは現実的な中国の風土に育まれて釈尊の・・

「犀(さい)の角(つの)のように。ただ独り歩め」

中村 元訳ブッダのことば スッタニバータ・・と道(い)われた「禅ニヨル生活」を歩んできたのです。

「禅」は独り一人にチャントあります。宗教ではアリマセン。

寺僧や教本、教導に頼ることなく、独りでチョットの時間でも 無価値で役立たずの「坐禅」をなさってください。

          有(会)難うございました。 

価値がある・・価値が無い・・ということ・・

元服の書 NO㊱ 

価値とは何のことですか? 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

価値がある・価値がない・・について、役立たずの坐禅とか、無功徳の禅とか言われますが、いったい価値とは何ですか?

禅では・・ここでは「禅ニヨル生活」・・禅者である私の独語として読んでください。

私は、言葉や文字で表現することに、出来るだけ囚(とら)われないようにしています。考えたり、思ったりすることは、人間の大脳が比較し分別することだからです。社会や科学の進歩は、比較、検証することで成り立っていますから、学校の教育にせよ、社会で働くにせよ、機能機作や効果効能を重視し、社会や自分に貢献する・・価値あるものを大事にします。こうした是非を判断する大脳(本能)の発達は、身を守る・・死から生命を守り、人間という種を増やすことの方法から進化を始め、感性(愛/大慈・芸術・宗教)と理性(知性・科学・哲学)ともに進化して、全宇宙で、ただ一つ・・人間種(約70億人)だけが、最も優れた能力=比較価値(計らいと造作)を知る生物となりました。

閑話休題(それはさておき)・・今、宇宙の彼方に、知的生命体を探査したり、微生物の存在をしらべたりしていますが、私は(科学的な究明は大事ですけれども)残念ながら 他の惑星に、未知の生物を発見することは無いと思っています。

約2500年前、釈尊釈迦牟尼世尊)の「天上天下 唯我独尊」・・宇宙で唯ヒトツの遺伝子を持つ、ひとり独りだから、比較分別すべき価値が無いゆえに「尊い」のだ・・と言われた教えを守ろうと覚悟しています。

どうやら人間種は、100億人ぐらいでピークを迎え、日本に限らず減少すると統計学で言っています。この説が正しい(物理的科学的思考・・光より早いものがない等)とすれば、火星や土星位ならまだしも、数千・数万光年かなたの惑星に、知的生命体による文明があったとしても、いったいどんな価値なり、危険があるものか・・わかりません。浦島太郎や竹取物語のSF版か、あるいは宗教の例え、地獄・極楽の話のように思えてくるだけでしょう。それよりも宇宙的観点からすれば、僅か100億(人)程度の数は、尊重すべき価値ある生命体と思えないのです。

ビフィズス菌ですら、100億といえば、スプーン1杯分、たった1回で口の中にペロリです。

むしろ、人間・大脳の比較価値観を離れて、この天の川銀河の、浜の真砂より多い辺境の星。この太陽系の3番目、水の惑星に・・比較すべきものがない独りの人間として、自覚する生命体がいる・・この寂寥感に満ちた生活をすること・・禅ニヨル生活・・が大事だなぁと思います。

昔、父から「金石麗生」と刻印された石印をもらい、年賀状に押しまくっていました。金銀珊瑚、玉といわれる宝石は、生じた時から、麗しく価値あるものである・・と評価される。この思い込みは大誤解でした。また禅は坐禅によって「悟り」を得る・・とか、坐禅は「悟り」の姿ソノモノ・・であるとか・・思考(試行)錯誤は止めましょう。嘘も方便はもういい加減、捨てないといけません。

 

私は過年、年賀状を廃しています。それでも頂く年賀状には、遅れて2月頃、普通ハガキに禅語録の気に入つた頌や詩文の一節を書いて、その片隅に・・今でも「金石麗生」の朱印を押すことにしています。

その真意は・・純金であろうと、路傍の石コロであろうと、すべて独尊に麗しく生じている(露堂々・麗赤々)との意からです。

2020年は、臨済義玄臨済宗開祖)の「無事是貴人」(ぶじ これきじん)とするか・・

洪 自誠の菜根譚からの一節「花看半開」(はなは はんかいをみる)とするか・・

いずれにしても、計らい、造作のない(無価値・無功徳)の禅者の一語を採用する予定です。

くどいようですが、私の提唱する「役立たずの独りポッチ・イス坐禅」は、価値・無価値を勘案せず、河原にころがる石のように坐禅することにあります。どこかの誰かが、漬物の重石(おもし)にと持ち帰られるのも勝手ですが・・。

*タクワン石となる・・これは、京都 南禅寺師家 故・勝平宗徹老師の言葉です。

有(会)難とうございました。

 

◆カクレンボ・・ご飯ですよ!・・の声かかり。

2019年12月9日 追記補足

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて、坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず、修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅たったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)などから、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して仲間づくりはなさらないこと。独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず、坐禅と書いてください。

        雑感31 ◆時覚の自覚(Ⅱ)

かくれんぼ・・ごはんですよ・・の声かかり・・

「時間」というのは、武田邦彦先生のブログによれば、エントロピーの増大で、その変化である・・といわれる。社会の歴史は、過去・現在・未来へと、1方向に流れる時間経過の、人の群れとしての変化であるから、群団を統率した人の名は不要であろう・・と云われる。

科学的時間論や物理的分析、あるいは「君の名は」のような、出会いのすれ違い文学論はさておき、自心の時間について書いてみます。昔から、禅者の時間意識は、お腹がすけば食べ、日が暮れれば眠り、晨陽(しんよう)を視れば、野良に出て働く・・ことであった。時間感覚はあってない・・至極 独り感覚的な実際生活に基づいている。

例えば、西洋で時計や羅針盤が発明され、科学的文化的生活が発展したが、真の禅者は(現代といえども)「時計やスマホ」を持ちたくない上に、TVも見たくない人達と云えましょう。

せいぜい時事に関しては、新聞、ラジオを聴く程度。これで現代社会に、うまく適応できているか・・どうかは自身の自(時)覚次第なのです。当たり前のことですが、禅者の社会生活は、チャント、ルールとマナーを守っているし、社会の為に働いていく・・その姿は、世間からは「木偶の棒(雨ニモマケズ)」と呼ばれたり、木鶏とか閑古椎(カンコツイ)とか言われたりする・・時代の人物評価の範疇に入らない者なのだ。

禅者は、まるで、常に極点に境地立脚しているようだ。

東西南北の地図が要らない生活をしているのである。

昔、一休宗純の「無」の一字の大書を見たことがあるが、あまりの迫力に近寄れなかった。いわば、禅境(地のアマリの)深さを感じたのです。「ナルヨウニナル。心配スルナ」との、禅者の一語(遺言)の深きもケ・セ・ラ・セ・ラの歌の文句ていどの受け止め方では、悟境万里であろう。

だから、時間は人間が勝手に設定したものだ・・と思います。

つまり、人が「気になる出来事を気(嫌擇・造作)する時だけ、時間が生まれる」ので、気にしなくなると時間は消失してしまう・・と思います。

時間とは・・強力な利権の欲望・好嫌に拘泥する者にとって、また、自責の念にかられて苦悩する者や、自己犠牲の者など・・あるいは楽しく、面白く思う時や、他人の為に、何か役立つことを為している時は、長短、増幅のいずれを感じるのであろうか・・。

夕暮れ時・・カクレンボ・・「ご飯ですよ」・・の声かかり・・遠くで母の呼ぶ声を耳にした鬼役や、隠れている子供たちの、それぞれの遊ぶ時間は、統一されてはいないだろう。

そこに子供たちと「カクレンボ」に興じていた 五合庵の禅者、良寛はどうしたのであろう。

彼は、真っ暗になった道の端の草陰で隠れ続けていたが、村人に怪しまれて「シーッ・・静かに!鬼に見つかるではないか」と、独りしゃがんで「隠れんぼ」をつづけていたという。

良寛は、この不思議な時間の網から、自由に解き放たれていたのだろうか?。  

どうやら現代社会は、組織(システム)化され、電磁化され、自動化され・・時間(出来事)を気にする人の関りが、エントロピーの2乗で増大していくかのような・・スマホ依存症の増幅社会だなぁと思います。また、逆に、独り一人、同じ時間(概念)がない、電磁波社会ともいうべき現代であればこそ「役立たずの独りイス坐禅」の環境が整ってきた・・と思います。

もし、欧米の方が「ZEN」や「坐禅」に関心を持たれて、日本に来られたなら・・

「ZEN」を紹介された鈴木大拙先生の著作「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう、お奨めください。

面倒だとばかりに、京都や鎌倉の拝観料をとる有名な寺僧を紹介するような、無責任なことをなさらないように願います。

多少、瞑想やヨガなど、実践された方でも、純禅は、知識や集団の修行では得難い事・・独りイス禅(そのまま居眠りできる位の気楽で勝手な坐禅)で、腕時計が外せるようになり、TVやスマホやゲームやマンガから執着しない生活が出来るようになれば・・無門関(禅のパスポート/素玄居士提唱 意訳)ぐらい・・貴方の語学力で話してあげてください。

48則ある語録の内の、ただ1則・・自分が【?!?!】と思い、興味・関心を持った・・タッタ1則のZEN MONDOU【?】によって、疑心暗鬼の時間の網の目が氷解してくれればいいのです。

ご自分一人でなさる折々のイス坐禅で、本や他人の教導を受けず、矛盾を突き詰めていってください。何年か・・そうした孤独の坐禅をなされる内に、禅境が深まっていかれたことに気づかれることになるでしょう。

時に、独りイス禅にウンザリして、途中放棄してもかまいません。無理やり、自分が自分に押し付ける、強制的な坐禅はしないことです。いつかまた・・何かのキッカケで、必ず何処かから、独りイス坐禅の「呼ぶ声」が聞こえてきます。

注意すべきは、決して仲間を作ったり、禅の解説本を読んだりして、助けを呼ばない事です。

外国の方は、分析や検証する科学的な能力に優れています。神ですら契約に基づく信仰の、長い歴史をもつ民族です。無価値で評価しようのない「空・無・般若」は「光あれ」と天地創造された神の以前・・の自分とは何か・・を知りたい根源の好奇心の「呼び声」です。

論理では理解できないものですが・・といっても、頭脳は分析し比較し論理的心理学的にナントカ納得しようとします。

欧米にZENを紹介された、鈴木大拙先生といえど、禅への入門の方法を問われれると、「コツン!」とテーブルをノックされて「ここから どうぞ」と言われたそうです。

入門は「無門関」です。どこからでもノックして入れます。

見性(悟り)は、公案タッタの一則透過すればOK・・、俱胝(ぐてい)和尚は「指1本」を生涯、あやつって使い切れず・・雲門さんは「クソカキベラ」とケナシ付け・・趙州さんは「ご飯を食べたら茶碗を洗いなさい」と叱りつけた・・ZEN。本を読むと、少しは解かった気になりますが、実は思考作用だけで、迷うだけ・・独りイス禅が、禅ニヨル生活の基本です。

中国の禅者、大慧宗杲(だいえ しゅうこう1091~1163)は、禅が文字、説話の学習に堕して、実参実修であるべきはずを憂いて、碧巌録を焼き捨てたと云います。

私は、こうした社会にあって、間違いなく「時間」を気にかけない・・それでいて「時間・出来事」の只中にありながら、それを「面白い(楽しい)か、役立つ」かして、不惜身命に社会や人々に貢献している方・・それを「役立たず」まで掘り下げた方・・「禅ニヨル生活」をなしている禅者とします。

あえて一人、禅者をイメージすれば大愚良寛でしょうか。

私は、禅の原点である達磨(面壁)禅から、真っ新(さら)にリセットしなおさないと純禅は絶滅すると考えています。

遠い将来に・・国別、年齢、能力を問わない・・無功徳な「禅による生活」者が誕生することを・・ソレこそ夢見ています。

カクレンボしている・・次世代の禅者に呼びかけたい・・

カクレンボご飯ですよ!』の声かかり。

有(会)難とうございました。

 

坐禅の数息観って何ですか?

元服の書 ㉟

坐禅の数息観って、なんのことですか・・

なぜ「役立たずの坐禅」を薦めるのですか・・

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

昔から、禅者の坐禅の時の呼吸法を云います。

普通、1呼吸(約10秒程度)の吐く息を「ヒトーツ・・フターツ・・」と数えて「ココノツ・・トウ!」と数え、またヒトーツに戻って繰り返すのですが、私は、「ムゥ-ツ」まで数えて、また最初に戻ることにしています。

これを3回=計18回すれば約3分間です。自然、6分とか10分とか・・寝る前など、もう目が半眼にならずに閉じてしまい、寝入ってしまうことも多くあります。

役立たずにしても、グッスリと眠ります。

中国では、千回・・1万回、呼吸を数えたそうですが、逆に、数えることにコダワッテしまい、夜坐して、朝まで呼吸を数えて過ごしてしまう・・肝心の坐禅をしていない人まで出現しています。

寺僧の教導による坐禅の仕方は、集団修行方式ですから、規律や形式が決められており、私はお奨めしません。例えば、調身・調息・調心の順に、まず体がスワル・・結跏趺坐(けっかふざ)半跏趺坐(はんかふざ)を教えますが、「足が死んだ」と悲鳴を上げる外国人もおり、こんな痛い思いまでして、リラックス出来る訳が無いのです。

せいぜい、つらい痛みに苦しんで、疲れ果てて止めてしまう人が多いのも納得です。イス禅は、ただ・・イスに姿勢よく坐り、眼を半眼にするだけでよいのです。手の組み方(印相)も、法界定印(ほっかいじょういん)とか、降魔坐ではドウとか、約束事や型(タイプ)がありすぎて、うんざり。イス坐禅は、自分の身体が楽になるよう、坐り方も、時間も、好きなだけを、自分で決めればよいとしておきます。

体操ではありませんので、深呼吸や、肩や胸で呼吸をしてはなりません。自然な、寝ている時の腹式呼吸ができれば最高です。

朝、起きる前、寝た時・・寝姿のままで、10秒程度の呼吸を18回やれば、数息観、独り3分間ポッチのイス坐禅ができます。

ところが・・喧騒の社会は、例え3分間といえど、なかなかヒタスラな坐禅などさせてはくれません。

やってごらんなさい。

周囲の雑音の酷いこと。テレビやスマホがガナリ立てている・・犬・猫、自動車の騒音がヒッキリナシ・・ウルササ(五月蠅)と、妄想(思い患う)に、たちまちトリコになり、何のために坐禅がしたくなったのか・・

目的が解らなくなってしまうのです。

何か坐禅をすることで、悟りが開けたり、心が落ち着き、集中力ができ、呼吸が調うことで長息(生)出来る・・そんな期待をしてはなりません。

禅は、この宇宙(神羅万象)が、自分にとって何の役にも立たず、価値も無価値もない「空=無」であることを実体験することにあります。そのキッカケが、自分の心のどこから湧いてきたのかワカリマセンが「坐禅・瞑想でもしてみようか」の思いであり、「禅」とは何だろうか?・・の疑問?であり、好奇心?です。これをタネとし、太陽の光と雨水のような坐禅で、大樹に育ってくれれば・・「心配するな・・ナルヨウニナル」一休宗純の禅境(地)に迫れる禅者となりましょう。

坐禅の仕方や、寺僧の教導、文字(言葉)、哲学、心理学、脳科学に頼るのではありません。

それでは、とうてい解決、安心できない・・宇宙でただ一つの?・・それが「ZEN」です。

浅はかに、教えを乞うたり、欣求(祈り)したり、解説本を読んだりすれば、悟り(真理)が理解できる・・などと誤解してはなりません。

妄想にとらわれず、すみやかに坐禅三昧になる・・とは、よく言ったもので、ソンナ簡単なものではありません。まったくの嘘っぱちです・・

犬に大覚(悟り)はあるか?の求道者の問いに、唇から光を放ったと伝えられる禅者、趙州従稔は「無」と答えています。

(無門関 第1則 趙州狗子)

彼は120歳まで長生きして、禅を広めた方ですが、その語録の内に、ほとんどの欲望、妄想は雲の如く消え失せたけれども、ナカナカ大変だったのは「食欲」だった・・と述べています。

本能が思考や感性(愛憎、宗教・芸術)の原点であるのは間違いないにしても、私の場合・・数息「イツーツ」・・たったの50秒ほど経過しただけで、はや、欲望や想いが湧き上がってくるのです。そう簡単に「無心」になんかナレマセン。

そこで「ム―ッ」と数える時・・「無—ッ」と、趙州無字に置き換えて、想いに囚われぬようにしています。いつの間にか・・坐禅公案の拈弄(コネクリ)になるようにしています。

有(会)難うございました。   

 

雑感30 ◆時覚ということ・・

5475日/131400時間

時間をシッカリと見つめ、人が織りなす因果・葛藤を寂寥の内に風流、瘋癲(ふうてん)に見立てられる方は・・「禅者」です。

 

お尋ねします。

「おいくつですか?」

「どこから来られましたか?」

この二つの問いの答え方次第で「禅(坐禅)による生活」の、天地同根、一得一失が判明するのです。

チョット言い方(問いかけ)を変えてみましょう。

アナタは・・「いくつ(何歳)まで生きられるのですか?」

アナタは「(独り・死ぬと)どこへ行かれるのですか?」

今ではなく未来への願望を尋ねる話になると、いろいろな仮説を想定し忖度(そんたく)や造作(ぞうさ)を図って、実に頼り気のない心持になるものです。

もしも・・もしもだが・・神様から「あと5475日間です」とか「131400時間です」とか、ハッキリ生命時間を断言されたら、アナタはどのように返事をされ、生きるのでしょうか?

時間と自覚=寿命と命(イノチ)について・・深く坐禅をしなければ透徹した悟り(時覚・発明発見)はないのです。

戦前から欧米で禅を紹介、広められた故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)に学んだり、本を読まれたりした多くの人達がおられます。 

しかし、戦後74年を経過した現在。残念ながら、大悟・見性して「禅ニヨル生活」を為している禅者は出現しておりません。

例え、外国に、真の禅者がいたとしても、世間の評判から隠れて、宮沢賢治の詩、雨にも負けずの「デクノボウ」と呼ばれていることでしょう。

欧米のZENに関心を持つ人達は、日常の思考・感覚の相違からナカナカ独り坐禅に溶け込みません。彼らは、日本人の・・例えば「香ヲ聴ク」体現的な感覚を、社会的な歴史の中に持ってはいないのです。表意文字でもありません。

そうした禅への理解や、体験的な素質については別の折りに書いてみます。日本人も、段々とスマホ・PCの電磁的社会の利便性に依存して、真の坐禅の意義を失ってきています。

誰か、奚仲造車(ケイチュウゾウシャ)無門関 第8則か、

胡子無髭(コシムシュ)同4則あたりで、拈弄にくたびれて、うろついている欧米の禅者に出くわしたいものです。

日本人は、口先ばかりの寺僧や学者が多く、孤独に徹して、寂寥(無功徳・瘋癲フーテン)の坐禅を為す方がいなくなりました。