「末後(まつご 死にぎわ)に糞をさらして梵天に捧ぐ」・・一休宗純

元服の書⑨ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

「悟り」というのは、どんな心境ですか?

      ●人生 裸(心)で生きるべし・・そんなもんでしょうか・・

それは独り一人に、もともと備わって(持って)いるものです。

悟り(見性)は坐禅をすること・・その心境が、生活の中で身について、行いが、そのまま坐禅となるような心境・・自分一人・・の只中でしか、発見発明できません。

 

その心境は、どのようにしても、決して他人に伝えて理解されるものではありません。

あえて言えば、言葉や文字で判断、理解できるような、理性、思考、論理、哲学、心理学、宗教(三昧)、物理学、量子力学、さらに芸術や職人、スポーツなど・・戦争や集団など・・集中、分別、対比、検証の範疇にアリマセン。

臨済は、禅(心)に「造作」すること・・意識した思い、目的行動、利権組織、罪や罰、自我意識など極端に否定しています。

達道の禅者は、煩悩が、そのまま菩提(ボダイ・・悟り)であることを、坐禅(禅による生活)で体験、熟知しています。

どだい「悟った」とか、「見性」したとか、修行の僧堂師家、老師の印可証明をもらったとか・・忍者の極意書じゃあるまいし、少し独りポッチの坐禅を自らに課してきた者なら、悟りは、どのようにしても表現できない・・乾坤(ケンコン 宇宙)ただ独り・・自覚するものだという自分軸を確信(覚心・核心)しています。

さらには・・鍛錬、修行し研究努力して、その功績があって悟りに至る・・そんな概念(イメージ)を持ったら大間違いです。

むしろ悟り(見性)など、この世にない・・ありえない事として、独りポッチ禅を、3分間、役立たずになさることが初心、素直なおこないでしょう。

アナタは、禅(心)を悟って、どうしよう・・どうしたい・・と思うのですか。

みんなに認められて、教祖様にでもなりたいのですか?

今・・私は、現代社会に生きているので、誰かの・・何かの教導で「安心できる」とか、「ココロが救われる」とか・・そんな嘘っぱちは見聞したくありません。もう齢(ヨワイ)70を越して足腰も衰え、棺桶(ベッド)の中で寝起きする毎日です。

武田邦彦先生がブログ・・http://takedanet.com/ で言われるように「昨日は晴れ。今日も朝」の清々しい気持ちで、晨陽(シンヨウ  アシタ、アサヒ)を迎えたいと思います。

自分では「人生 裸(心)で生きるべし」です。

釈尊ですら、衆生が煩悩するから我も悩むのだ・・と、現在進行形で云われます。愚禿(グトク 禿げ頭)親鸞は「南無阿弥陀仏」と一度だけでも、この娑婆(シャバ)で唱えれば、極楽浄土へ往生できる・・というが、はたして本当だろうか?・・と思うことがある・・と、たしか唯円に語られたそうです。親鸞さんは、弟子はひとりも持たない・・といわれた方ですが、その後の教団組織・・アリャ一体・・何ですか?

私は、東西の本願寺派を信じるのではなく、親鸞さん(独り)を信じています。

日本の禅では一番に一休(宗純)さんです。遺偈(イゲ 死に際の言葉)に・・誰か吾が禅を会(エ)す。虚堂(キドウ)来たるも半銭(値打ちもない)に値(アタイ)せず・・と、自分が尊敬する中国の禅者を唾(ダ)するごとく切って捨てています。

二番目に敬愛する禅者は、大愚良寛さんです。

 

このように、禅者は自分本位の「悟り」など、何の心の支えにならないことを知っています・・そんな思い(煩悩)を消却(償却)して、地域の人々と一緒に、日常の暮らし(禅による生活)をしているのが真の禅者です。(例え悟ったにしても日頃の悩みは尽きず・・が本当です)・・よく、どの宗派でも坊さん達が、昔から「煩悩無尽誓願断」(ボンノウムジン セイガンダン)と、四弘誓願(シグセイガン)を唱えますが「煩悩即菩提」なのに、ワザワザ、どうして誓願までして「断」ずることをしたいのだろう・・?と疑問です。

今回も、解かったようで、解からない話になりました。

愛が問う(PCの打ち出し文字)・・有(会)難うございました。 

 

◆元服の書⑧ 孤独ということ! 7/2修正追記

元服の書⑧ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

「孤独」と云うこと・・

「独りポッチ(禅)」について・・

6月29日 若者からの問いに7/2追記して、私(禅者)の意見を書きます。以下「孤独」について・・「若い頃、孤独感や坐禅をどう思っていたのか」・・のお尋ねがありました。

私は京都から、明治大学に入るために東京に出ました。戦前から、父が鎌倉の鈴木大拙翁(仏教学者、禅者)に師事していたご縁で、円覚寺続燈庵(焔魔堂の弓和尚 故・須原耕雲老師)に寄宿して、お茶の水まで、横須賀電車で通学していました。チョウド60年安保騒動(デモで東大の樺さんが亡くなられた時)で、全く、頭デッカチ・・禅の本を読み漁るだけの生意気な盛りです。そして、中年の時期は、仕事にかまけ、独りポッチ禅は、寝る時の催眠作用に利用するような、いい加減さでした。どうやら本気になったのは、碧巌録や素玄居士の無門関提唱の意訳をし始めた・・65才を過ぎたあたりから・・ですから、禅は年季が入っているからとか、集注心や命懸けの修行をしたから・・といって、悟れる代物じゃないですね。これは禅のパスポート/素玄居士の無門関提唱・・意訳に、ハッキリ出てきます。・・以来10年~を過ぎて、今なお第2稿あたりでウロツクありさまです。碧巌録、無門関の意訳は脱稿するのに、あと3年~5年ぐらい・・下手すりゃ生涯無理であの世になるかもしれません。その時はごめんなさい・・と思っています。(どうぞ、今の内に読んどいてください)

禅は「色即是空」といい、唯我独尊、無功徳とか、本来の面目とか、無心とか・・独坐大雄峰、平常(心)是道、日々是好日、天地同根とか・・孤独とか・・イロイロ言いますが、有名な禅語の一語を、論理的哲学的に解釈して解かったつもりでした。

でも、皆さん・・若者には、これだけはお願いしておきます。本を読まれますように・・。棺桶に両足が入る年になって、学生時代からの禅語録を再読すると・・赤線を引いたところ、ことごとくが大間違いであることに気付くのです。

「悟り」の文字は「吾がココロ」と書きます。

人生に「?」と思ったことの解決は、何十年たとうと、あなた自身、私自身の解決でないと「安心」できません。その安心の地図(本)が先達の禅語録です。語録の表題(タイトル)のことごとくが・・「孤独」の一字で収まります。

禅者の遺偈・・すべてが「無」の一字で事足りるのです。

心頭滅却すれば火、自ずから涼し(快川紹喜かいせん じょうき)恵林寺天正十年四月三日信長に反逆し焼殺された偈(心境詩)も、死に臨んで朦々淡々(モウモウタンタン)六十年、末期(マツゴ)にクソを晒(サラ)して梵天に捧ぐ(一休宗純)も・・どんな時であれ坐禅は独りポッチ・・唯我独尊一字で完結、圓融していると覚悟しています。

若い時こそ、本を読むべし。本は心の食べ物です。そして・・役立たない「三分間独りポッチ坐禅」こそ、大事な胃腸の消化作用です。

(社会的な問題として取り上げられる「孤独感」については、社会学者や心理学者、宗教学者などに任せておきます)

私の場合、一番大事な言葉・・釈尊の「唯我独尊 ユイガドクソン」と自覚された・・その「孤独」についてです。

釈尊は、菩提樹下の悟り(ひとりポッチの坐禅)の後、アチコチ行脚されて、いわゆる「仏陀の教え=仏教」を、説かれました。

釈尊の悟り=「禅」は、言葉や文字で言い表せない・・拈花微笑(ネンゲビショウ 無門関 第6則 世尊拈花)として、一人ひとりの坐禅(禅による生活)に根差しています。禅はインドの菩提達磨が中国にわたり、そして日本に伝来しました。

禅が、さも宗教的に見えるのは、寺僧による生業(ナリワイ、組織的な生活手段・方法)であったからで、そうした寺僧の揺籃期がなくては、キット禅は途絶えたことでしょう。

だだし、現代に至って、観光禅化したり、国際化したりして、独りひとりにあるべき、純禅の発見発明はなくなりました。

以下の事例に挙げた禅者に限らず、あまたの先達が、独り・・ひとり・・の風雪の時代に、禅は滅びました。そして、また、宇宙のどこかで、新たに花開くこととなりましょう。

  • 大愚良寛(タイグ リョウカン)は「悲登利」ヒトリ あそびぞ われはまされると自画像に自賛して、良きかな道 うたた寛(ヒロシ)の人生を謳歌しました・・「うらを見せ おもてを見せてちるもみじ」彼は世間からの逃避ではなく「乾坤(宇宙で)ただ一人」の世界に徹した禅者でしたから、素直な遺偈(いげ)を遺しています。

    *遺偈・・死に際しての最後の言葉・詩文などの意。

  • 博多の仙厓義梵(センガイ ギボン)は、洒脱な禅画を得意とした庶民の中の禅者です。かねてから仙厓は・・人生は「独り生まれて、独り死んでいく・・「生まるるを死ぬるはじめと我は知る、始め有る身の終らましやは」・・と「独りの禅境」に徹してこその 禅者の一語を残しています。
  • 日本人なら誰でも知っている、あの一休(宗純 そうじゅん)さんは、イッパイ飲み屋にも、女郎屋にも足を踏み入れた風狂の禅者ですが・・「行脚こと畢(おわ)る。拄杖子(しゅじょうす)を折り六月の雪に焼く」・・人生の長旅(88年の生涯)の杖をおって、夏に降る冷たい雪に焼き捨てよう・・と道(い)われました。

*一休狂歌「門松はめいどのたびの一里づか、馬かごもなくとまりやもなし」「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」遺偈「須弥南畔(シュミナンバン この人間社会で)誰か我が禅を會(エ)す。虚堂(キドウ)来たるも半銭に値(アタイ)せず」

*ここに挙げた、いずれもが、絶対的な時間・空観・・「独り」を道(い)い当てた禅境(地)なのです。

*道と書いて「いう」と読みます。単に口で喋るのでなく、生活の中で行う・・実行する姿そのものを「道う」と書いたのです。

*禅者の遺偈については、古田紹欽著「禅僧の遺偈」春秋社を参考にしました。

「禅」は、坐禅して深く「独りポッチ」で沈潜する作業(心の働き)です。昔、アメリカで流行したZENのように、麻薬的な心理状況でもなければ、茶華道などの趣味教養や論理・哲学・宗教・倫理でもありません。人間の社会的な生活を尊重しながらも、それに関与するものではない・・また「求道、欣求」する・・とか、難行苦行の修行で得られるような境地でもありません。

ただ、ココロに湧く「寂寥感」を友として何の役にもたたない・・たったの3分間「独りポッチ」坐禅を行う・・【孤独】そのものです(参照・・碧巌録「聖諦第一義」第1則)

自分一人、試行し錯誤し・・独り、自分(行い)に迷いながら、ようやく自分だけで発見発明して、安心にたどり着く独行です。

禅機(悟りの発明=キッカケ)や禅境(地)は、独り一人・・それぞれに深浅がありながらも、自覚する前から、それぞれに身についています・・から、ひとり坐禅でのみ自覚できるのです。

寺僧の教導を受けたり、本や講演・提唱など、二人以上の団体、教師、友人知人と集って学習して得られるものではありません。

(語れば語るだけ、文字にすればするだけ、迷いが増え、執着心が増えてきますので、できるだけ、独りの条件を整えて坐禅なさることです)

私が意訳している、千年前の禅語録「碧巌録」や「無門関」には、どのページ、どの則を開いても「独り」・・何にもコピペされないお前さんは何だ?(何似生 カジセイ・・何に似て生きているのか?)・・唯我独尊の自分とは何だ?の問いかけと、その答えが満載です。

例えば・・無門関「倩女離魂 セイジョリコン」第35則。「達磨安心 ダルマアンジン」第41則。

碧巌録「百丈野鴨子 ヒャクジョウ ヤオウス」第53則、「道吾一家弔慰 ドウゴ イッカチョウイ」第55則・・などの公案をひも解くだけで、円周率の計算のように・・言葉・文字の限界、思考の臨界点に行きつきます。

も一度、道(い)いましょう。

「弧独」とは、色即是空・天地同根を実体感する・・独りポッチ(禅)の意で、ただ・・寂寥感を道ずれに行脚する「禅による生活」なのです。 

会(有)難うございました。・・PCでキーを叩くと「愛が問う」と浮かび出てきました。

 

すべては「すみません」と「ありがとう」でカタがつくのに・・6/18(月)追記

元服の書⑦ *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、

        中学・高校生の問いに答えて書いています*

何事も「スミマセン」で始まり「ありがとう」でくくりこむ・・是れ 家内安全・商売繁盛の素!

年を取ると、どうして時間の感覚・・時の経過が早くなる気がするのか・・わからなかった。釈尊や達磨、達道の禅者たちが、無常迅速をいい、時は人を待たず・・と忠告するのか。それは「今=この場所」の、出来事の一つひとつが、どれだけ、自分にとって大切で、愛(いと)しいものであるのか・・そのTPOの生活実感の深まりであろう・・かと、想うに至った。

この結論風な答えは教えられて解かるものではなく、独りポッチ禅を実施するとか、馬齢を重ねるしか自覚する方法がないものでした。

時間の経過を忘れる・・と云えば、例えば、パチンコやスマホのゲームに熱中している時、仕事や趣味やスポーツに夢中の時など・・その心境を仏教では三昧(ざんまい)と言うが、私は、この境地は、単なる心理的な集中力のなせる業(わざ)にすぎない・・と思っている。

(これは、後日、「孤独と独りポッチ禅」について、質問のあったことの奉魯愚(ブログ)の時に話しょう)

閑話休題(カンワキュウダイ=それはさておき)・・世界の平和とか、人類の幸福とか・・大きく言えば・・トランプ大統領と、北朝鮮の独裁者、金将軍さまとの、米朝会談(2018年6月12日)がありました。核やミサイルの廃絶や、忌まわしい拉致事件の解決に・・つまり、国家的な平和や、国民の幸福についての大問題でも、またトナリ近所の、幼子を死に至らしめる夫婦やいじめ、セクハラなどの、小事件の一つひとつでも・・「平和」と「幸福」について・・は、争いのお互い同士=たった2つの言葉を実行しあうことで、争いから幸せにと、変化、実現できるのに・・と思っている。

戦争や、商売や家庭や恋愛など、あらゆる大小の紛争ごとは、たった2つの言葉を、どうしてか・・お互い言わないでイガミアウことに起因している・・と考える。

それは【スミマセン】と【アリガトウ】・・それだけです。

 

私は、自分一人ではコメやパンひとつ作れず、自然や他の働く人々の努力抜きで生きられない100億の生物種の1人=フンコロガシの人間版・・であると思っています。

朝食に飲むサプリメントビフィズス菌ですら、スプーン1杯で100億。宇宙からみれば、人間の繁栄など完全に絶滅危惧種に見えることでしょう。そんな小さな(動物の中では人間だけが・・)憎しみあい、殺し合いする・・どうしてするのか・・何故だろうか? 

どうぞ、アナタも、心の中に問いかけてください。

そして疑問をぶっつけあう教育の場、家庭の場。職場であってください・・いったい・・どうしてなのだろうか?・・?・・?

セクハラ・パワハラで先生やコーチが、警察官が、教育委員や政治家が、捕まったり、プラットホームから線路に飛び降りて逃げ出したり、どうしてするのか・・性教育にせよ、性欲や男女の考え方の違いにせよ、もっともっとお互いに話し合うTPOが絶対に必要なのです。

◆ある時こんなことがありました。突然、山手線の電車の中で、女子高校の生徒3人から先生のセクハラ話を持ち出され、校長までも、もみ消しにアクセクしている・・誰に相談すればいい・・教えてくれと言われました。次の駅で降りる彼女たちに、トッサに答えたのは「無料相談の弁護士に聞いてもらいなさい・・真剣に対応しない弁護士なら、たらいまわしもあると覚悟して、あなた方の立場を想ってくれる弁護士を探してください・・」と言いました。教室で、性病や毛ジラミの事を学んだり、妊娠を予防するコンドームのことを話したり、慰安婦のことをありのままに、意見交換したりできる場がないのが問題です・・避妊手術や悲惨な交通事故現場、梅毒、性病の眼をそむけたくなる現実の映像をシッカリ、監督しながら見せてやることです。口先だけのオタメゴカシで若者は胡麻化されません。

省庁の、にやけた官僚やNHKなどの社員の不埒な言動が、ニュースで取り上げられる時代です。親や学校、教育組織や職場,NHK,新聞、マスコミが信じられない時代が来たのです。(お互いの顔が見えない電磁的社会の始まりです)

◆職場で、主婦の方から相談されました。3月高卒、大学入学予定の娘さんが、妊娠していて相手の大工仕事の男が、家に結婚を申し込んできた・・と言うのです。

両親が将来を期待した娘の一大事。私は・・「娘さんはどうしたいと言われますか?」

「娘は、大学進学は諦めて、結婚して、あとあと余裕が出来たら、年とっても大学に行って勉強したい・・と言っています」:とのこと。私は、思わず唸っていいました。

「申し込みにきた大工の彼もしっかりしているが、アナタの娘さん・・覚悟が出来てるね。アナタが18歳の頃、もしも親に内緒でこんなことを起こしたとしたら、アナタはどうしたでしょうか。娘に託すアレコレの夢や希望はともかく、先様のご両親ともお会いになって、お二人の将来、その決意を、しっかり見守ってあげることが大事ですよ」

・・この結婚話・・「スミマセン」で始り、「有難うございました」・・で、幸せにくくりこまれました。

 

どうですか・・まず、イキナリ諦めたり、絶望したりせず、先生や友人と、忌憚のない意見を述べ合ってください。そして実際のドキュメントを映像で見る、百聞は一見に如かずを経験してください。(安全教育を主催する学校や会社は、お笑いタレントで講演会を開くぐらいなら、事故ドキュメント映像を見せてやるべきでしょう)

 

私は、昔、お尻から煙が出る・・と自慢するほど、学生時代から煙草をふかしていました。それが、ある時、学会発表のための肺ガンの患者さんの手術記録映画を見せてもらったら、一発で禁煙できました。

ジワジワと呼吸が出来ないで死に至る病にかかりたくはない・・の実感です。

また、交通安全、事故防止の新聞キャンペーン記事を書くことになった時、府警本部のお偉いさんから、免許を持つ貴方が事故(スピード違反・飲酒運転etc)を起こしたんじゃ話にならない・・といわれました。

たまたま悲惨な交通事故現場の事例写真をイッパイ見せてもらったので、免許証を返上する覚悟ができました。それから・・30年間以上、月一度のキャンペーン記事(評論)を書き続けることができました。免許証が無くて不便なことはあっても、アンナ悲惨な事故の【加害者にも被害者にもなりたくない】と思ってきました。ですから、事故防止の対策には口先、文字だけのマニュアルや教育でコトすますのでなく【百聞一見にしかず】・・出来るだけストレスの起きない工夫と指導で、ドキュメント映像を見られるよう、またひとり、ひとり、皆が意見を言い合うTPOを・・提言します。

サテサテ・・自分で答えを見つけなさい・・と言うだけでした。スミマセン。

6/18(MON)追記・・本日の大阪北部地震に関する武田邦彦先生のブログ「地震:科学者(界)は御用学者を追放しよう!」を拝見。賛同しました。どうぞ皆さん・・先生のブログ・・http://takedanet.com/   をご覧になることを推奨いたします。これから30年間で起こる地震の確率(●%)とTVなどに出演して報道する・・(政府・文科省(官僚)、NHK地震研究番組ともどもに)援助金をもらっている東大系御用学者。その地震や噴火警報の)組織や研究の取り組みを改め、もっと基本的な研究に真摯に努力する学者を大切にする体制づくりに、科学者は御用学者を追放する声を上げてほしい・・と言われています。自分の利権の為に、災害の学問と人の命をないがしろにする学者やNHKは要りません。

有(会)難うございました!

 

 

元服の書⑥ 這えば起て・・立てば歩めの・・独り一人!

元服の書⑥ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

      禅・・とは? 悟り・・とは?

それは独り一人に、チャント備わっている「自心」の認証です!

インドから海路、中国へ達磨さんが「禅」を伝えました。

紀元520年、中国、梁の武帝と面談(問答)したことが、碧巌録(1128初版)第一則「聖諦第一義」に記載されています。

「禅」とは何か?武帝の問いに、達磨は「廓然無聖」(カクネンムショウ・・ただ青空のごとく)・・と答え、さらに武帝から仏教を広めたことの貢献を問われて「無功徳」(何の有難みもなし)と断じています。

以来、禅は、政治や社会的な軋轢(あつれき)をきらい、達道の人を訪ねての旅(行脚)と問答を行う、求道者の独歩独行・・「禅による生活」の中で育まれてきました。

禅は「宗教」ではありません。

また、哲学や心理学や論理学ではありません。

中国から、日本に伝えられた禅は、おおむね仏陀の教え、仏教の寺僧たちの揺籃(ゆりかご)で育ち現代にいたっています。

でも、禅は、代々の寺僧たちの、学習や修行で、伝承されたり、欣求・祈願したりできるものではなかったのです。

般若心経はご存知でしょう。色即是空の法を説きます。

この冒頭・・行深般若波羅蜜多時(ぎょうじん はんにゃはらみたじ)と前置きの文言があります。般若波羅蜜多(禅)を深く行ずる時・・坐禅をする行為・・禅境(地)の深まりを前提条件にして、照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)・・見聞する総ての事象は、尽(ことごとく)く「空」=「無」であると照らし見て、一切の苦厄から度(ど・解放)する・・度一切苦厄・・と述べています。

つまり、独り一人、坐禅(禅=悟り体験)しないとわからない世界だ・・ということなのです。

そして、悟りに至った禅者や求道者が「禅による生活」を、独り寂寥の内になしてこそ純禅なのです。

禅に関する、沢山の解説書や教導する団体組織がありますが、教えてもらい学んで解かる「ZEN」なら、それは禅でも悟りでもありません。

自我(価値とか付加価値、意識、無意識)のコピペ(造作)を全部、剥ぎ取って想念の真っ暗な卵の殻を自分で割ってのみ、自由(おのずからよしと自覚して青空)に飛翔できるのです。

宗教で言う三昧(ざんまい)とか、念(今のこころ)とか、断捨離なども一切、無用です。平常心など、禅語の切り売りは、造作、誤解はなはだしく、純禅の最も嫌うことです。

どうしても・・と坐禅で参考にできるのは、まず・・

①「無門関」=禅のパスポート、素玄居士提唱=意訳中、

②求道者たちの行脚・問答集「碧巌録」禅者の一語=意訳中、

③「般若心経」274言・・ぐらいですか・・

これも現代版の貢献あらたかな意訳ではなく、ウジ虫のわく味噌汁をすすった清貧の禅者、白隠の「毒語注心経」・・般若心経を毒舌、悪口で注釈したものが一番です。

私は大森曹玄著 春秋社刊・・昔、神田の古本屋で1300円で買って大事にしています。もう1冊、お勧めは「盤珪禅師法語集」藤本槌重編著 春秋社刊 同じく古本屋で3000円しました。

本は二~三百年以上、経過しないと真贋、ハッキリとしません。

何度も言う通り、独り一人ポッチ坐禅するところに禅はあり、先生、師匠、万巻の指導書などは参考となるにすぎません。

むしろ独りポッチ坐禅に邪魔です。

禅は「空」とか「無」とか、何の役にも立たない無価値、無功徳なものを、ストレスの特効薬のように売りつけ、宣伝しません。

絵にかいた餅(大悟・見性)を求めてみたところで、すいたお腹はふくれません。

役立たずのポッチ坐禅だけが真に満腹する手立てです。

心の安らぎは、自分の中に発見する以外、どこにもありません。

貴方もまた、赤ん坊の頃、独りで「這えば起て・・立てば歩め」と成長したでしょう。

何につけても、あまり頼りなさるな。甘えなさるな・・と言いたいです。

有(会)難うございました。 

  

◆元服の書⑤ 答えは【問い?】の中にあり!(5/2 加筆しました)

元服の書⑤ 

真の答えは、その問い?・・の中にあり!

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

Q:勉強したり働いたりするのは、

何のためですか?

Q:お金を儲けて、楽をして生きるのが,

悪いことですか?

A:昔から欧米(西洋)や中国人・・ほとんどの国で、働くことは奴隷や植民地に任せて、貴族や金持ちの自分(たち)だけが、わがままで好き勝手な生活をして何が悪い・・といった考え方、生き方をしていました。

それと反対に「禅」の世界では・・百丈懐海(ひゃくじょう えかい 720~814)が「1日作さざれば(働かないなら)1日食らわず(その日は食べない)」という、厳しい戒律を作って禅集団を引導しました。

時代は、約1200年前・・美人で有名な楊貴妃・・玄宗皇帝の頃。

その時代に対比してお話します。

唐、玄宗皇帝(35才)の頃、クレオパトラと並び称される有名な楊貴妃が誕生した1年後、彼(百丈)は誕生しています。玄宗皇帝61才の時、蜀の玄琰(ゲンエン)の娘27才。見染められて楊貴妃となります(百丈26才)・・白楽天長恨歌【春寒く華清地に浴を賜う、温泉、水滑らかにして凝脂(ぎょうし・・しっとりした体の意)を洗う】と詠じた如く、華清宮に豪遊している皇帝、取り巻き貴族。やがて・・安禄山の謀反や、道徳退廃のきわみの中で、玄宗皇帝70才、楊貴妃36才・・皇帝に裏切られ、置き去りにされ、遂に祠で首をくくって死亡、路傍の石下に埋められた・・といわれます。

当時、世情一般や仏教徒、禅僧ともに退廃、堕落はなはだしく、百丈は、初めて清規(しんぎ)を制定して、世界に類を見ない道徳実行の禅者となることを宣言したのです。

 

勉強して、金もうけして、楽をして・・人に迷惑をかけなければ、それでいいじゃないですか・・何が悪いのですか・・と、問われれば、何も答えようがありません。

 

ただし・・アナタが「人生 裸(心)で歩むべし」と、独りポッチ禅を提唱する、この私に問いかけてくる・・その問いかけ・・の火を、吹き消さないよう、大事になさってください。

「禅」は(欣求 ごんぐ)宗教ではありません。

昔から求道者は、アチコチ達道の禅者(師)との出会いを求めて行脚(旅)をし、人生とは何か・・の「問答」を行いました。

真の禅者の共通点は・・「悩みは自分(ひとり)で解決せよ」(無門関=門より入る・・これ家珍にあらず)です。見聞、学習など、頭脳や心に取り込んだものは、本当の(自分の)宝物ではない・・の意です。現代の「禅」は、寺院や僧侶、茶華道による生業(ナリワイ)手段として利用されています。例えば、一休や良寛の行跡を、観光禅としたり、集団として修行して悟りに到ろうとしたり、ひどいのは、寺僧が教導したから宗教だ・・と、求道者独り一人が、坐禅して、人生を行脚(旅)する、純禅を認めてきませんでした。

NHKですら、禅に関する放送で、どうどうと「座禅」を薦めます。

真の禅は「坐禅」・・独り一人、それぞれが、屋根のない山中、樹木の下、土や石の上にドッカと坐り、雨、風・・降らば降れ、吹かば吹け・・の覚悟で坐ればこそ・・古来から「座」と書かず「坐禅」としてきました。

たったの3分間、役立たずの「独りポッチ禅」・・思い起こすごと、独りポッチでなさってください。

自分が自分に、ひとり問いかけなければ、自分が本当に納得する答えが出て来ないのが、人間の特性(業とも宿命とも)なのです。尊敬する師や友人や、宗教や本など・・アナタの悩み、苦しみの解決には、参考にこそなれ、真の救いにはなりません。

結論は急がれないように願います。

真の答えは、必ず、そのアナタの問い・・自身の[?]・・の中にあることを自覚なさるでしょう。

 

つまらない!くだらない!・・no・・思いこそ大事な「好奇心」だ!

元服の書 ④ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

◆目的がなく生きるナンて・・

 「つまらない!」(充実しないの意)

◆何の役にも立たない、独りポッチ禅なんて・・ 

 「くだらない!」(昔の意味は京の都から江戸に出回らないの意)

◆「水」を教えたサリバン先生の指文字「Water」の働き・・

  こそ・・不思議な「好奇心」の発現!

人間には、喜怒哀楽の動物的な本能から発達した感(情)・・と、自分とは何か・・を考える知恵=理性があります。

好きだ 嫌いだは、犬猫、パンダの赤ちゃんにもあるね。

絵をかいたり歌を歌ったり、芸術や信仰やスポーツなども、心=感性でしょう。

原因を分析し、結果を検証するのを「理性」としておきます。

これは、何故とか・・どうしてとか・・学んで、研修する人間(好奇心)のある人間だけに出来ること。

役立たずとか、下らないとか・・批判、評価するのは、言葉や文字によって、比較したり分別(ぶんべつ)したり、発見発明したりすることにつながります。

じゃ・・イジメや虐待(ぎゃくたい)、暴力、戦争は、どうして起こるのでしょうか?

(どうやら、その深い震源は感情・・本能にあります)

先ほどの質問・・生きる目的がないから、つまらない・・というのなら、どんなことがあれば、つまらなくない・・生きる価値あり・・とするのでしょうか?(これは哲学です)

私を含めて大抵の人間は、この感性と理性のハザマで、なんとか心と体のバランスを、うまくとりながら共存しています。

例えば、日本の伝統、お中元やお歳暮など「これはくだらないものですが・・」と遠慮しいしい云うように聞こえますが、昔は、京の都から江戸に下る品物ではありませんよ・・と、贈り物の良さをいう言葉でした。

反対に江戸から、天皇のいた京都には「上る」といいました。

時代によって言葉は変化し、不偏(不変、普遍)の真理など、ありません。

アッ・・そうか・・人間は「言葉=文字」で考えてるんだ。

だから・・ヘレン・ケラーは、「水!そのもの」をサリバン先生から「Water」の指文字で知りました。(本質の開眼)

それには、ヘレン・ケラーの、無明・・心の闇に宿った「好奇心」が大事な役割だった・・としておきます。

さて、生きることの目的は何だ・・役立たない坐禅何故するんだ・・の答えは、自分の心に芽生えた「好奇心」・・どこからか湧いてきた・・その問いかけがある限り・・必ず、自分が自分で見つけてくれる・・(自覚)となります。

 

ですから、教育や本や宗教や親や友達や報道やスマホは、社会の多数の人たちの、共通の利便性を考えるものですから、参考にこそなれ、決して自分の「正解」を「自覚」できるような、答えにはなりえないのです。

人生・・何のために生きてるんだ?と思い、その「なぜ?どうして?」と思う、疑問が芽生えた「心」へこそ、水やりをしてあげてください。

 それは、どんな水か・・といえば、ヘレン・ケラーに施したサリバン先生の指文字「Water」のような働き・・です。

その働きを持つのが、役立たず「3分間独りポッチ禅」です。

言葉・文字 足らずですみません。

あてにならない文章ですが、ホントかどうか読み返してください。

禅者の一語「碧巌録 第56則 趙州の唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」を見て下さい。

*4月14日SAT 7:15AM 改訂しました。

有(会)難うございました。 

 

 

ZEN・盤珪の不生禅◆佛心を念に仕替えさしゃんな・・と申すことを、俗の人に説き聞かせまする!

   ◆仏(禅)心を、念(執着心)に仕替えさしゃんなと申すことを、

      俗の人に説き聞かせまする程に・・盤珪永琢

  ◆「不生禅」フショウ禅(生まれず禅)・・

私は、日本の代表的禅者に、ここで紹介する盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)を挙げます。(もちろん、白隠さんや一休さん良寛さんなど、敬愛する禅者は沢山おられるけれど)盤珪さんほど、解かりやすく禅を説かれた方はいません。それも一般庶民に対しての提唱です。昔、北鎌倉の円覚寺、続灯庵、故・須原耕雲老師(焔魔堂弓和尚)に寄宿、参禅していました。その近く東慶寺、松が丘文庫におられた鈴木大拙先生の著作に、盤珪さん特集があり、不生にルビが附ってないので、どう読むのかわかりませんでした。般若心経の不生不滅(盤珪禅では、生まれてないから、不滅は不要)に由来するのですが、あまりに単純なので、よく言えば知的批判の旺盛な、ズバリ言えば、口だけ達者な生意気な若者・・であった私には、ケッタイナ昔の坊さんの印象でしかありませんでした。

ところが、会社仕事の合間、3分間独りポッチ禅を工夫しているおりおりに、また、無門関や碧巌録の意訳を志しはじめた60才の頃から、盤珪の不生禅が、次第に心の片隅で、フツフツと醸成されてきたのです。

この2018(平成30)年2月、神田の古本屋で、盤珪禅師法語集、藤本槌重編著(昭和46年(株)春秋社刊)を買い求め、この奉魯愚に紹介するべく読みました。身に染みて再読しました。

*以下、文中「仏」の字を、悟り(覚者)=「禅」と置き換えています。

*平語、民衆の言葉そのままに禅を説かれています。

法語/三p186=41

「人々 皆、親の産み付けてたもったは、不生の仏(禅)心一つ。餘の物は産み付けやしませぬわい。不生なが禅心、禅心は不生にして霊明なものに極まりました。不生で一切事が調いますほどに、皆不生の禅心で居さっしゃれい。不生の禅心でござれば、今日の活禅(禅による生活)でござるところで、不生で居ますれば、迷いようもござらぬ程に、迷わにゃ悟りは要りませぬ。直(じき)な事じゃござらぬか。

また、不生なものは、不滅なものに極まりました程に、身共は、ただ不生とばかり説きまして、不滅とは云いませぬ」

p187=42

「皆、禅心を餓鬼(がき)に仕替え、修羅(しゅら)に仕替え、あれに仕替え これに仕替えて、不生で居ませず、迷いますところで、凡夫に成りますわい。身共がもうす、この仕替えぬ、と云うが肝要な事じゃと思わっしゃれい。

p187=43

「仏祖と申すも生じた跡の名でござれば、不生な場からは第二義、末(すえ)な事でござる程に、不生で居ますれば、仏祖のもとで居るというものでござるわい。至って尊いことでござらぬか。不生決定(ふしょうけつじょう)しますれば、法 成就ともうすものでござるが、その決定しました事は、我より外の人は知りませぬ。人に知らせようもござらず、また人の知ろうようもござらぬ。また人の知らぬとあっても、苦しゅうはござらぬわい。不生決定の場は仏祖も不識じゃわい。どなたに依らず、不生な事を決定めさるれば、骨を折らずに畳の上で、心安う活如来(禅による生活)で居るというものでござるわい」

◆ただ「不生」と決心、覚悟すればよいのだ。昔、禅がインドから中国に渡って来た頃、この不生禅は盛んだったが、唐代、日本に渡来して、何時しか消えてしまった。今、私(盤珪)がこれを再発見して話している。迷いは仮に起こり、仮に滅する、実体のないものである。禅心は不生だから、少しの念もない。だから迷いもない。迷わないのに悟りたい・・とは無益なこと。不生は自知冷暖・・「自ずから冷暖を知る」までのことじゃわいの・・と道(い)う。(現代でも、江戸初期の庶民の言葉が、直に心に響いてくることを願います)

「自分から念を生じ、知恵才覚、利根を出さいでも、万物はそれぞれに、自ら通じ別るるは、霊明なる禅心は不生にして、事事物物がそれぞれ埒(らち)があくということを、深く信心決定して肯(うけが)はしゃるまでの事でござる」との仰せなり。

・・解かりやすいでしょう・・もう一つだけ・・坐禅して悟りを開こうと思うのは大間違いだぞ・・と警告しておられます。

また、おりおりに盤珪さんの法語をご紹介しましょう。

はてなブログ「禅者の一語・・碧巌録意訳」「禅のパスポート・・素玄居士の無門関 意訳」おりおりごらんください。