独り坐禅で自覚する「行い」の大事さ!

元服の書 NO60              

中学・高校生と~第2の人生を歩む方に答えて書いています 

現代・・禅は寺僧の介在する宗教ではアリマセン。

独り坐禅により自覚する【禅ニヨル生活】行いです。

釈尊仏陀(覚者)の教えを民衆に説かれたのは、独り菩提樹下の坐禅のあと、暁の明星をご覧になって、文字にも言葉にも表現できない・・大覚(見性)をなさり、この「衆生、本来、佛(菩提、覚者)なり」の真実を、できるだけ解かりやすく説かれたのです。

佛(陀の)教とは 悟りたる者の教えの意であり、そのモト・・原点(宗・玄・元・素)の教え・・宗と教の意味でした。菩提達磨により紀元520年頃、海路、中国南海(広東・南京)に渡来以降(先にヒマラヤ越えで伝来した佛教教団や国政・戦争の迫害を受けながら)それが日本に伝来し、欣求宗教として今日に至っているのです。

確かに、千五百年以上の今日に至る、寺僧、禅集団の組織、長い揺籃期がなければ、臨済(宗)曹洞(宗)黄檗(宗)など、個性的な祖師禅(宗のモト)は、日本で三本の太い枝を持つ大樹として根を張ることは出来なかったことでしょう。

しかし・・二十一世紀、もう、そうした伝教の時代は終わりました。飛行機や自動車・人工衛星。無線、PCなどの電子機器の革命、原爆などの大量絶滅兵器の保持、開発。地球気候変動、環境破壊など、それぞれ主義主張する国々では制御不能なIT文明の社会が乱立、誕生し、それに追い打ちをかけて、経済・産業・生活の格差社会と混乱が「個」としての対応をそれぞれの人に迫っています。

禅は「独り・瞑想」する「行い」の原語です。

坐禅は座(家の中)ではなく、独り・一人が、直に土の上にドッシリと坐っている形です。

私は、この行禅こそ「独りイス禅」で、何の功徳(無価値、利権・損得)もない、役立たずの「行い」でなければ、悟り(見性)に至ることはありえず、その坐(禅の)境(地)は 寝起きから、朝食・仕事・就寝まで、朝な夕な、オリオリに少しの時間を割いて フト・3分間程度のイス坐禅を積み重ねるところに、より深い、向上の境地(自覚)が開けると確信しています。

ただ普通の10秒1呼吸を、18回程度。それで3分間になります。目は半眼で、背筋を伸ばし、複式呼吸(寝ている時の呼吸)で、目覚める時、寝る時、通勤電車の車中、吊革に手をやって・・休憩時間の3分間・・頭で比較・分析、効果検証、因果効能を追うことなく(そんな妄想は3分間ホッタラカシ)坐禅してください。思いや効能、造作を意識しない・・捕らわれない、独りポッチの3分間を生きてください。いずれは、18回の呼吸(数息観)も忘れ、野球のボールが止まって見えるとか、道に落ちていたタバコのフィルターが、白い土管に見えたとか・・湧く雲の如く見聞する誇大妄想が、いつの間にか消え失せる事でしょう。

そして役立たず(無功徳)の禅とか・・ご飯を食べたら、お茶碗を洗えとか、般若心経の色即是空とか、禅者の一語の公案、解説抜きで「なあんだ・・コンナKOTOだったnダ」と、チャント禅が「わが身について」あることを自覚されるでしょう。

まわり中、スマホをかざして歩く人が、足のない幽霊に見える時がくるでしょう。

遠く将来の私の夢は、火星とか土星とかを目指して、孤独に宇宙を旅するアストロノートが、無重力のロケットの中でクルクル回りながら坐禅している姿です。無線映像ですら、何時間、何日間のかかる「過去同士のやり取り」に耐えられるのは 独り1人に備わっている「無功徳の坐禅」のチカラしかアリマセン。そうした時代まで、世界中の誰かが・・独り3分間イス坐禅を、つないでいってほしいと願っています。

最近、出版の準備(校正、編集)が遅れています。               まだまだコロナ騒ぎが続きましょう。くれぐれもお大事に。                    

     有(会)難とうございました。

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無一物 即 無尽蔵(むじんぞう)

元服の書 NO58 鮒釣り=坐禅・・

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

どうして「独り3分間イス禅」がフナ釣り・・なのか?

坐禅は、長時間にわたって続けても、何の効用、功徳もありません。釣りと同じで、魚が餌に喰いついてくれるまで、なすすべがありません。

ただ・・足が痺れ、妄想が湧くばかりです。

このタッタ3分間のイス禅は、仲間は要らず、独りで静かになさることです。イス禅の初めと終わりは、釣りの「フナに始まり鮒に終わる」のと同様 呼吸が大事です。イノチです。

呼吸に始まり、呼吸に終わるのです。

鼻から静かに吐いて、自然と吸う・・一息 約10秒の呼吸数を「ヒトーツ・・フターツ・・ミッツ・・」と数え、ムーッツでまた「ヒトーツ・・」に還る。これを、ゆっくり、自然に1呼吸10秒として、3巡回すれば18回=6×3=約3分間です。

数に飽きたら、私は「一トナル」「フタツトナラズ」「満ツル」「予ナラズ」「溢ナラズ」「牟(無有)ウ」などと漢字に置き換えたりして呼吸数としています。

呼吸は、人間が生きている証です。どうせ何かに集中して、坐禅していることも忘れるのであれば、牟(ム=無有)に帰する「無功徳」禅です。6つ数える呼吸で、単純化したらよかろうと思います。

難しいのは・・行う場合の「効用・造作」を捨てること。

何事も総て、因果応報、効用効果抜きでは、考えられない人間の「業」がネバリついてきて離れません。

無用の呼吸と坐禅、無用の行動あるのみ。

せめて3分間。1日1回でも、何の役にも立たない「禅」に身を浴してください。独り坐禅(接心)を、生活や行いのTPOとして、続けられることです。

独り一人に健全で気づかない呼吸のように「禅」はあります。チャント「禅ニヨル生活・禅の行動」が備わっています。気づかなくても、無功徳(何の利得もない)禅に身を生かされているのです。

注意すべきは・・禅は宗教ではアリマセン。坐禅すれば「悟り」が得られる・・そんなコダワリや妄想を早く捨てる・・忘れることです。

釣りも同様、釣れる時節に釣れるのです。

禅は無用の「呼吸」で終わり⇔「呼吸」で始ります。

ただ無功徳・無一物・・無盡蔵なのです。

有(会)難うございました。 

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   ◆拄杖は長きを争わず・・誠拙

元服の書 NO57            *中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています*

◆「拄杖(しゅじょう)は長きを争(あらそ)わず」

・・誠拙周樗(せいせつしゅうちょ1745~1820)

杖は禅者が常に行脚(修行旅)に携えている持ち物であり、よく禅問答に登場します。自分自身を譬える言葉でもある。

長短を争わない・・という意は、損得勝負、利権是非の比較をしないとの意味であり禅ニヨル生活の心境を道(い)う。宇宙や大自然の動植物の生命も一つひとつ輝いている。

確かに、誠拙周樗その人の生きざまは、虚名行為を否定して、忘路亭と名付けた庵に住し・・これは寒山拾得(唐代の禅者)遊山途上、帰る道、戻る庵を忘れた例え・・鎌倉・円覚寺の中興の祖(第百八十九世)と称えられる禅者です。

昔、続燈庵に寄宿して、お茶の水(明大)へ通学時代、ご縁のある正伝庵や佛日庵、白鹿洞の前を日毎に通りながら、意気に任せて立ち寄りもせず、禅の荒廃を嘆いた純禅の人(古月禅材の法孫、月船禅慧門下)を見過ごしていた私が恥ずかしい(うわさ話に・・大枚500両の寄付をした檀家に礼も云わず、それを罵しられて、私がもらう金ではない。布施の福徳の行為であるだけだ・・と喝破した禅坊さんとの認識だけでした。私は無功徳禅を主張し、役立たずの、3分間独りポッチのイス禅を推奨していますが、なんと「無用道人」を名乗る先達であったとは・・禅僧の遺偈 古田紹欽 春秋社 関東の臨済禅を復興すP197 オカゲサマで大いに参考になりました)

昨日(2021.8.8)・・コロナウイルス蔓延による五輪(2020)延期の大会が閉幕しました。

ようやく7月末、2回の老人優先のワクチン注射を終り、猛暑によるのか、注射の副反応によるのか、はたまた八十翁に手の届く老人の所為か・・思考能力が散漫で、TVを見ても感動がアリマセン。ただ選手たちが「勝った・・メダルを逃した」と言っているだけの印象が残ります。

今でも、次のフランスと共同開催して、延期開催はなしにしてもらい、打倒コロナ対策の1年にしてもらいたかった・・と思います。

有(会)難とうございました。

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◎五輪・・酒類提供できる! ×(ダメ)国内野球・・酒類 禁止?

やはり・・利権まみれの五輪を露呈した日本、2年越しで・・

開催に反対しています!

前の東京五輪は、映画の助監督になりたてで、TVドラマの撮影のスケジュールに追われて、観戦応援している暇がありませんでした。(あれから55年~今度こそ ゆっくり見れる・・と思っていたのに、このコロナ騒ぎです)

五輪は世界中の国の国民と選手が、何の拘束もされず、自由に参加出来る「スポーツの祭典」でしょう?

それが、このコロナ騒ぎで、予防注射も満足に打ててない・・一番ひどいのは・・開催国 日本です。

政府や東京の規制とワクチン認可が、先進国中、ビリッカス!

開催の1カ月余り前のイマ・・再び、罹患者が増加する傾向にある・・とされている東京に、どうして御モテナシの国民・都民の余裕があるのですか。

世界中で、まだまだウイルスが猛威を振るっているのに・・予防注射も満足に打てない人たちが一杯いるのに・・どうして選手団を日本に送れるのですか。

万一、その国の選手団の一人でも、コロナ発症者がでれば・・そのスポーツは取りやめになり、その国は冷たい目で見られます。反対に日本人からウツシタ状況なら、おもてなしが仇になります。

ご近所同士の運動会を連想してください。

お呼びして大喜びで集ったスポーツ大会で、ご近所のどなたかの一人が、新型ウイルスにやられたとしたら・・想定するだけでこの運動会は中止されるでしょう。

国民の6割が、中止か延期を望むなかで、実施を決めた政府の長、都議の長、都知事の責任は、どうなるのですか?

断固、反対しなかった医師会や、各スポーツ関係者、事務方の長・マスコミの責任はどうなるのですか? 辞職すれば済む話ではアリマセンよ。

仮に、国民の1割が反対していても、世界的なコロナ戦争の最中であれば・・中止するのが マナーであり 常識でしょう。

五輪は・・世界中の選手や庶民の総てが、何のコダワリもなく 参加国へ旅して、応援する権利があるはずです。

分け隔てのない平等の条件下で、共に競技し、共に応援するスポーツの祭典ではありませんか。

相手に「ココロクバリ」のできるハズの日本が、コロナ戦火のもと強硬実施すると 誰が・・決めたのでしょうか?

・・アンナ優柔不断なキョロキョロ(虚路據魯)眼の首相や、密にならぬようお願いしますの1点張りの都知事には、家庭の常識、世界のマナーが通用しないことが解かりました.。

最大のW・スタンダード(庶民無視)は、五輪観戦の酒類飲用の許可です。一般の野球やサッカーなどの応援・観戦では(例え・・酒類のスポンサーがあっても)禁じられているのに、五輪だけ特例に許可する・・というのです。

マスコミや電通など広告代理店・・どこも反対していないようです。もし反対しているメーカーがあれば、速やかに名乗り出られるとよいでしょう。好感度UP!です。

五輪の利権の為の開催・・絶対 反対です。

今からでも、遅くありません。次の五輪、フランスとの共同開催が出来ないとしたら、この五輪に選手を送り込む国の総てを、競技別の世界五輪選手権(大会)として、順繰りに招待して、各競技開催をしようじゃありませんか。(世界中の人の日本訪問、観戦 熱烈応援・大歓迎)

実施はタブン・・来年以降(首相や都知事が選挙で交代してから)・・オリンピックは、国やオリンピック委員会、スポンサーの祭典ではなく・・選手と応援する一般、庶民の祭典です。

勝手ながら・・天皇陛下もコンナ五輪選手権なら、ご観戦いただけるのではないかと思います。

◆この奉魯愚は中高生やそのご両親の質問に答える形で、意見をしています。

はてなブログ・・禅者の一語(碧巌録 現代意訳)/ 禅のパスポート(無門関 素玄提唱 絶版意訳)・・独り3分間イス禅・・禅のココロ禅の話 ご覧ください。

有(会)難とうございました。 加納泰次 拝。

タカガ運動会を、国を挙げて命懸けでやることではありません!

元服の書 NO56 *中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています*

◆タカが・・世界の運動会を、イノチと引き換えに出来るもんか!

コロナ騒ぎでワクチン待ちの老齢者があふれかえる日本。

どうして「世界の人々をオモテナシ」できるもんか。

オリンピックは国が主宰する訳じゃない。そこに住む庶民(都市)の、参加する祭典・・お祭りでしょう!?

昨年も出来なかったが、盆踊りだって、花火大会だって、密を避けて、中止延期させているというのに、ウイルス戦争の防衛も世界に後れを取っている日本が、そこの首相やオリンピック委員会や、知事や、マスコミや、開催することで利益を生ずる団体が、6月の中旬に開催内容を決定するという。

私は昨年の年頭から、この奉魯愚(ぶろぐ)で、フランスのオリンピックを4年間ずらして、日本で開催すればよい・・と提案しているが・・利権まみれの関係者スベて、参加することに意義があるスポーツの祭典・・その原点を見失っていると思います。

今は見えない敵(ウイルス)と、庶民の命をかけて戦っている「コロナ戦争」中です。

招致の時に言われた「OMOTENASI」・・とは、日本人の、誠実さ、礼儀正しさ、他人を思いやる・・の意味に他ならないのに・・つまり・・表・裏のないココロクバリの意味なのに、恥を知れ・・と言いたいのです。

首相に・・都知事・・関連省庁の大臣・・与野党や、言われた事しかしない官僚や医師会のグズグズぶりなど・・ひっくるめて・・肝心のワクチン対策、戦争戦術の手際の悪さにあきれ果てる次第。

世界の運動会は、後年・・毎年だって、10年ごとだって、制度を柔軟にすれば、いくらでもできるが、コロナ戦争の死者は、タイミングが悪いと無視される。棺桶にも消費税がかかるのだぞ。

首相と議員と都知事に漢字テスト。

「ココロクバリ」を漢字で書けば・・

だんだん情けなくなってきた。今度の選挙では、絶対、命がけの1票、入れてやらないぞ。

以上・・

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コロナ騒ぎで、自己免疫(禅の場合)を考えます!

◆息(呼吸)は「生きる」こと・・心の免疫づくり!

赤チャンが誕生する時、力の限り泣きます。誰から教わったのでもない、この世に生まれて、初めて息をするのに産声をあげるのです。 

赤ちゃんが生きる第一の働きは、息(呼吸)をしたこと・・息(イキ)は「生きる」という「自(おの)ずから心を」生(しょう)ずる・・と書きます。誰もが、当たり前にやっている息が、独りポッチ禅の一番、大事な出来事です。

禅は、まず・・息(呼吸)を数え、息と姿勢を整え、眠らぬよう目を半眼にして行います。昔は、数息(息を数える/呼吸)を何万回と数えたり、南無阿弥陀仏と口の中で祈念したり、ヨガの姿勢にしたり、滝に打たれたり、いわゆる三昧(集中)の修行を集団でしたのですが、無心になれとか・・ナカナカ人工(集団)的な難行苦行は成功しません。

現代でも寺僧の跡継ぎを養成する専門道場(僧堂)が、トマトや苺の温室栽培もどきに、形式重視の坐禅研修をして住職の資格を与えています。人工栽培方式の失敗です。

佛教を生業(なりわい)にする寺僧でない一般人は、自宅や仕事・職場、学校の合間に「独り」で行う・・リラックスした正当な坐禅をなさってください。「独り接心」と言います。

「禅」を建物とすれば、チャント「玄関」=数息・・呼吸から「禅による生活」に入るのです。

*玄関・・禅語・・最初の関所・・入口の意。

知識や迷いや欲望など、身に着けた思惑、造作を忘却する時・・最後に残るのは自然な「呼吸」と「心臓」の働きです。

思考を思考することの出来ない人間が「天地同根」を大覚できるのはどうしてか?

私達の頭脳(思考・感性)は、本能から発達した「言葉や文字」によって思考しています。つまり、産まれた時からズット・・母親や兄弟や学校などの教育と社会環境で学んだことを、比較し分別して、わが身の利害、損得に利用、判断している訳です。

では、自分と他者を区別する「免疫」のメカニズムはどうなっているのでしょうか。自他を分別するには、自他共通の土台がないと区分できないはずですが、何を自己とし、何を異物として認識しているのでしょうか。それにアトピー性皮膚炎とか花粉症は、自己免疫の過剰反応だといわれますが、どうしてソンナ間違いが起こるのでしょうか。不思議です。

*この免疫の考察は、医学者や生物学などの学者、先生にお任せします。

人生は「思い」ではなく「行い」ソノモノの連続です!

私は、身体と同様、精神(心)にも「免疫作用」があると思っています。

これを、「心(霊性)の免疫」と呼びますが、それぞれの人が、一人独り、自己参究する・・坐禅の数息(呼吸)から始まり、分析、区分できない・・矛盾の公案を・・突然、頓悟(飛躍)して・・見性/自己同一/透徹・・の自覚(境地)にいたる・・それでいて、ハッキリ、普段の生活を大慈にしながら・・「禅ニヨル生活」を、淡々と営んでゆく・・そんな境地を、「悟り」と言い、この心の免疫を体験(体得)した悟者を「禅者」という・・と思っています。

つまり頭脳の神経回路が、普段の思考回路とは別に、公案を拈弄するうちに直観(霊性)的な共感回路として創られ、結成するのでないか・・文字を書けなかった米つき恵能が、突如 頌(げ・・無一物・・悟りの詩)の代筆を頼んだり、梅の香りで大覚したり、竹に石の当るカチンと云う音で見性したりする禅者の・・大悟する状態は釈尊以来、独り一人ごとに備わる「ZEN」のさまざまで不思議な魅力を証明しています。

禅を海外に紹介された、故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)は、白隠慧鶴の「毒語注心経」・・般若心経の毒舌的解説の書・・の不生不滅の項の一節・・手臂不向外曲(手臂・ヒジ 外に向かって曲がらず)の一語で悟られた・・と、大森曹玄著(株)春秋社発行にあります。

手首やヒジは、内に曲がっても、海のタコではあるまいし、外側には曲がりません。この当たり前の、誰でもわかっている「不自由な自由」の事実に、どうして禅機(悟り)がヒラメキ・・一瞬の内に「天地同根・真空妙用」が体観できたのでしょうか。

後年・・アメリカで「ZEN」に入門するには、どうしたらよいのか・・の問いに、哲学的仏教的解説を加えられることなく、サラリと・・机をコツンと叩かれて「ココからどうぞ」と答えられたそうです。どうして、コンナ音一つでZENにわが身が投入され、公案が透化(見性)されるのでしょうか。この悟りの実態を、もっと脳内革命として研究する禅学者が出てきてほしいものです。

禅を「心の免疫」というのは、身体の免疫(細胞)が、他と自己とを、どんな仕組みで判断、区別してしまうのか・・極めて単純、自由闊達な答えがあるのと同様に・・

理屈や造作抜きに、無功徳の達磨禅・・役立たずの数息イス禅を、独りポッチで行なうこと・・分別・意識・好嫌・感情や自利他利の損得が及ばない・・ココロのTPO状態でのみ、禅機・発見・悟りといわれる「心の免疫作用」が機能機作する・・のだと思っています。

 

心の免疫は、体の自己免疫同様、独り一人に備わる無功徳な働きですから、頭脳(の認識)に関与しない・・いつでも誰でもできる「数息禅の実行」で体得してください。

よくわからない免疫のことを、禅の場合に当てはめてみました。

人生 裸´(心)で生きるべし!

禅ニヨル生活=人間の本質は真っ裸になるトコロにある!

禅は、文字や言葉で、教導されて理解できることではありません。役立たずの独り禅で数息内観して・・その役立たずの坐禅も忘れ果てたあげくに、独りひとりが・・それぞれに自知自得するのが禅の境地です。禅ニヨル生活です。

◆思えば60年前、父(故・加納白鷗)が戦前より師事していた鈴木大拙翁のご縁で、円覚寺に寄宿して、お茶の水(明大)に通学した青春時代・・大学1年の時は60年安保騒動で、東大の樺 美智子さんが亡くなられた・・大拙先生は円覚寺から道ヒトツ隔てた東慶寺山内に松が丘文庫があり、そこに坐住されていた。

たしか父の用事で一度、お伺いして言伝てを申し上げた記憶があるだけで、眉毛(5cm以上)の長い孤高の人といった印象だった。我が兄(故、加納五郎)等は、たった1回、お目にかかっただけで、帰りがけ「貧」と揮毫された扇子をいたただいて自慢していた。

今・・その著作を再読するにつけ、まだ18才になりたての、青二才だった自分を思い出して、冷や汗の出る思いである。

鈴木大拙坐談集 第三巻「現代人と宗教」

1972年発行 読売新聞社

寺僧による禅からの脱皮、これからの禅を予見する「出家を出家する」項 

抜粋を附記しておきます(カッコ内は私の意見・仏教を欣求宗教の禅宗と捉えております)

発言順・・古田紹欽/柳田謙十郎/務台理作

前文~略・・務台「日本では寺院の総てが伝統の中にあり、このままでは早晩、日本の寺院佛教(禅)は没落するほかないと思う。社会の進歩発達に寺院がどれだけの推進力となり得るであろうか。

今日の青年の心裏をどれだけつかみ得ているかというと、まったく心細くなる。~おそらく仏教(禅)が今後の青年の心情のうちに復活し、新しい力になるとすれば、それは在家から、または思い切りよく寺院を捨てた人々の手から生まれ出るものと思う。

~仏教(禅)の改革は金ピカの寺の中でなく、最も近代的な苦悶の中にあえぐ者の手の内で行われるであろうと思う~」中略・・

柳田「~禅などにしても、その伝統的な修行の仕方、あの僧堂の生活というようなところでやっているのをみると、あんなことを何年やったところで、どうにも仕方がないのではあるまいか、というような気がするのです。

~瞬一瞬、われわれが撞着する眼前の事実そのものが、ひとつとして生きた公案でないものはないのである。~これを忘れると、宗教(禅)が、いつの間にか形式化して そのほんとう活発・発地な歴史的生命を失ってしまう。だから禅坊主は さとった悟ったといいながら、社会の進運からとりのこされて我々の歴史的現実を規定するなんらの力もない無力な存在となってしまう。

時代は坊さんの独善的な悟りなどには眼もくれずにぐんぐんとおのれ自身の道を歩んでいってしまうのである」

大拙「その通りだ。いまの禅坊さんは修行すればするほど、世間と離れたところへ行こうとする。封建主義の下で出来た僧堂は良いところも大いにあったが、今のようでは役に立たぬ面が目につく。禅堂の修行としては、むしろ個人個人の自由行動と、じゅうぶんに社会的なものがなくてはならぬ」・・中略~宗教経験の事実の項・・宗教(禅)の本質は、人間が真っ裸になるところにある・・と私は思っている。~人間には本来、裸になろうという気分があると思う。裸になるというのは、単に着物を脱ぐという意味ではなく、家とか、道具とか 環境というようなもの、社会的な位置というようなもの・・そういうものをみな捨ててしまって、真っ裸になりたいと思う。それだけじゃまだたりない。身体というものも捨ててしまう。これが最後の自分だと考えるが、それが間違いなんだ。やはり、これも捨てなくてはならぬ。そうしたいと思う。そして そうしなければならぬ。

それが真っ裸だと私は思っている~中略

解脱に至る道~中略・・着物を脱いで裸になる。赤裸々(露堂々)になる。苦しんで厭世でない宗教があつたら間違いだと思う。そうなるにはどうしても苦しまなければならぬ。赤裸々になれないと本当の真(まこと)がでない。人間は苦しむようにできている。苦しむから人間である。裸になるのは本当の人間に限る。苦しむのは人間の特権である。人間らしくなるには、どこどこまでも苦しまなければならぬ。

苦しんで苦しみぬけるところに苦しみが楽しみになる。苦しみを苦しむという所に ひとつの楽になる所がある。

そこに苦しみを超越して「ゆとり」というものができる。そのゆとりを持つことによって、人間をして人間たらしめる。

私は こう思っている、~後略・追記・・

さきに苦しまなければといったが、この苦しみは個人個人のもので客観的ではない。同じ出来事でも人々によって、それに対する感じ方が違う。普通になんでもないことでも、ある人にとっては並々ならぬ苦しみと感じられ、それが導縁となって、心の奥へ奥へと入ることにもなろう。

これを宿業とも宿善ともいうので、各自の心理的特性のことだ。

しかし、それだといって宗教意識は普遍性を持たぬとはいわれない。・・中略・・自力と他力。青年と信仰。信仰に至る機縁(人格の高い先生・師に就いて学ぶことの大事さ。あてどのない祈り(西田幾多郎)とキリストの愛について・・など対談は宗教と哲学にまで続いてゆく。

「赤(浄)裸々」の禅心と現代社会について、関心のある方は、鈴木大拙全集を読まれることを推奨いたします。

◆どうぞ、ご紹介した公案の中の・・禅者の一語・・何故か、この文句の一語に引っかかった・・その自分のココロの【WHY?】だけが、安心の入り口であり出口です。

千年前の禅者の行録・公案であろうと、現代の鈴木大拙坐談集であろうと、新旧の差は一切ありません。自分のココロが安らかなれ・・と願うのは、独り一人に「禅」・・赤裸々な無即有・有即無の当体が チャントある証拠です。

表題は私の座右銘です。また禅のパスポートで紹介する西村素玄居士の頌に(銀座街頭を裸(心)で行く)とあります。

この奉魯愚(ブログ)をご覧になられて、気休めの人生論や死生観を語られても、やがては空しくなるだけです。独り一人に備わっている禅を確認なさってください。

12月8日はゴーダマ・シッダルダ(釈尊)が、菩提樹下、暁の明星をご覧になって、大覚(見性)なされた日です。

【12/9 追記】臨済録 釋 宗活 著より抜粋

ある人・・達磨大師に問う・・いかなるか、是れ【苦】と・・

      達磨大師「楽・・最も苦なり」

 今、寝読しているのが臨済録(講話/釋 宗活著 昭和16年光融館発行)だ。その一節に・・公案「父母、未生以前、本来の面目」を、釋 宗活老師が臨済の「夢幻の伴子(バンス肉体、欲と執着)に認着するなかれ」の一語を引いて、講話されているのに・・心惹かれた。

この肉体は、遅かれ早かれ無常に帰るものだ。どれほど貧着(とんちゃく)したところで、安心は得られない。本来の自己=主人公は、肉体ではない。「依るな」=人が衣をまとう・・ように煩悩を着るな。心は浄裸々(じょうらら)であれ・・と言われる。

たとえ殊勝な、禅の見解、玄妙な境界を生活の中に呈しようと、それらは、ことごとく聲名(しょうみょう)文句である。

目から読み、耳から聞き、幾多の経文の中から持ってきたところの、献立看板である。

どれほど、巧みに説きえても、言い当てたとしても、夢幻空華(むげんくうげ)取るに足らない。

大事なのは、その夢幻の中に乗じて、出てくるイキイキした心の働き・・そのもの・・無依(むえ)の道人が、禅の境地である。

禅の玄旨(奥義=そのもの)は、これこそは玄旨であると称することができないものだけに、例えれば・・鐘に撞木があたれば、その当たったところから、直ちに「ゴオーン」と応ずるようなものである・・と説かれている。

*「佛」は仏像とか、仏教とか、雑多な意味も連想するので「禅」としています。

 有(会)難とうございました。

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