【お知らせ】全編を当面・・編集(削除・改稿)中・・3/28~

禅・羅漢と真珠

元服の書・・瓦(カワラ)を磨けば、鏡になるか?「磨塼作鏡」マセンサキョウ・・禅の問答。

中国(支那)唐代、馬祖道一が師の南嶽懐譲とした・・坐禅は瓦をみがいて鏡にするようなものだ・・との話。

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

無功徳(役立たず)の「独りイス禅」長年やって悟りを得られますか?

この問いを発した方は、随分の間 禅寺で坐禅をなされたであろう・・と思います。坐禅は安楽の法門であるとか・・精神を静めるためにとか・・空(観・無念無想)になり切ろうとか・・公案を思考して、より評価の高い答えを得ようとか・・社会の干渉をきらって静かな余生でありたいとか・・四弘誓願の「煩悩無尽誓願断」(ぼんのうむじんせいがんだん)を、坐禅(悟り)による境地で、断ち切りたい執念の人であると言えましょう。

しかし坐禅する心構えが、最初のスタート時点から間違っています。瓦を鏡にする無駄な努力と申し上げておきます。

悟りは見性とか大覚とか・・無我の正覚ともいわれますが、その状況が最も近い言葉は「解脱」ゲダツです。蝉が地上に出て、その抜け殻を脱して鳴き始めるのを蝉脱(ぜいだつ)といいます。

それを禅になおして書けば「禅脱」です。

しかし、この禅脱は・・たとえ自分が必死に努力したり、希望したり欣求したり、集中(三昧・ザンマイ)したりしたからといって、セミが抜け殻を脱する(蝉脱・ゼイダツ)の如く、悟れる訳はないのです。

かえって(坐)禅を、我執我見で生殺しにし、坐禅する思いを増長させておいて、唯我独尊デアルことを決めこむ・・それが一番、禁じ手です。

・・してはならないことなのです。

禅は「煩悩即菩提」(ぼんのうソノママが悟り)です。

注・・共に 両忘しなければならない言葉です。煩悩が菩提になる訳ではありません。

決して、誓願して断じて切り捨てられるシロモノではアリマセン。

唐代の禅者 馬祖道一(ばそどういつ)と、その師 南嶽懐譲(なんがくえじょう)との禅話に「磨塼(ません)問答」があります。

若い弟子、馬祖道一が、ヒタスラ坐禅に打ち込む姿を見て、師の南嶽懐譲が瓦を磨き始めます。不思議に思った道一が「何をしているのか」・・と師に尋ねますと「鏡にしようと磨いているのだ」

馬祖「瓦が鏡になる訳がありません」と否定すると・・「坐禅して悟れる者になれるわけがない」と無礙(むげ)にいわれて、省悟(ハット気づく)する(後年の馬祖山)道一。

禅寺の専門道場では、昔、告報といって、禅堂の先輩が警策(けいさく)をもって、ぐるぐる回りながら、坐禅中の者を励ますために、集中心を養う事例など話して聞かせる風習があったと聞きますが、この「カワラをみがいて、カガミ」とする話(磨塼作鏡)など、僧堂の坐禅中に聞かせてやる老婆(親切)心がアレバナア・・と思います。

*四弘誓願・・衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道(禅への道)無上誓願上・・

*馬祖道一(709~788)この当時から、坐禅すれば悟りを得ることができる・・といった修行上の話が出回っていたと見えます。寺僧の専門道場での集団修行や接心など集中修行では、魔境など心理学上のノイローゼになったりすることがあり、そこまで無理しても、悟れることはありません。釈尊ですら、難行苦行の修行では悟り得ないことを知って、身心ともに、ベストコンデションで、独り坐を組まれたのです。しかも、悟られたのは、菩提樹下、坐禅をとかれて、フト・・暁の明星をご覧になられてのこと・・坐禅中にではありません。

坐禅したから悟りが開けるものでは決してありません)

よくある話ですが、坐禅や瞑想に魅かれて、道場に通ったり、写経や精進(点心)料理つきの説法・坐禅に、お仲間とホッツキ歩く御婦人方に多く見かけるが、せめて坐禅、瞑想を・・チンするレンジと心得て、牛乳を温めて飲み干す程度に・・独りイス禅を、気楽になされることを推奨します。

悟り(解脱)・・など、目指さなくてよい(坐)禅であればと思います。

*折あれば 無理やりの坐禅修行での「魔境?」話とか・・誰でもスグできる盤珪永琢(ばんけいようたく)の「不生禅」を紹介しましょう・・

有(会)難とうございました。

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坐禅・瞑想は悟り・解脱への条件か?

悟り・解脱」に「坐禅」は必要なのか?

今迄【役たたずの坐禅】は、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。

数息のイス坐禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら、独り坐禅を捨て果ててください。役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。

 

無門関 無門慧開の序(冒頭)に「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」

人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではないとあります。

街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。

むしろ、臨済義玄臨済宗開祖?~867)の出た頃までは、坐禅は瓦を磨いて鏡となすような・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。

鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で、「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)鈴木大拙座談集第5巻 発行 読売新聞社・・のように言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。これに警告しておられます。

 

先日、足かけ50年近く京都で水墨・日本画の京表具をしている方とお話しする機会がありました。

お話の隅々に、タガが職人・サレド職人の、表具師の気骨と正直な「三昧な仕事と生活態度」が感じ取れて、爽やかな想いでした。

書画の表装という表に出ない裏方仕事・・一心不乱、無我夢中の仕事に埋没して、我を忘れるのを三昧(ザンマイ)といいます。

この三昧境地は、坐禅や瞑想からだけ得られるものとは限らないのです。

この三昧を、禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。

ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。

前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。

チョウド ドコカノ国の政治家が、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。

酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気です・・と主張するようなものです。

蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)

 

誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則のWHY?に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ思いが、数息坐禅と入れ替わってくれるのです。

 

どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ見えてきましょう。

 

世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって滅びの一撃となりましょう。

跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。逆に云えば、純禅にとって願ってもない告知・認知のチャンスです。

 

極点を目指すためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、歩き(生活行動)です。

達磨の坐禅は・・役立たず(無功徳)=WHY?です。

目的地は廓然無聖カラリとした青空)です。

 

 

 

いつまで坐禅すれば解脱・見性が出来るのか・・

坐禅を長い時間、年月(期間)をやったからと言って、悟れるものではアリマセン。現在、紹介している千年前の禅語録「碧巌録」や「無門関」を読めば解ることですが、登場するどの禅者も、坐禅で悟った(安心を獲得した)禅者はヒトリもおりません。釈尊や達磨、臨済宗の開祖、臨済義玄や、日本の一休さん良寛さんも坐禅中、大悟した訳ではないのです。

ある方は暁の明星をみて・・とか、ある人は、どやされてとか、あるいは掃除の箒にカチンと小石のあたる音を聞いて・・とか、さまざまな機縁(ひょっとした禅機)で突如イナビカリ(雷嚇一閃)を見たように覚醒するのです。

・・と云えば、また、雷が鳴れば悟れるのか・・など、愚かな想いに囚われます。悟りを得たいために坐禅をするのは大間違いです。それでは、坐禅を何故しなければならないのか・・

無功徳(役立たない)達磨禅を薦める理由とは・・

生活(仕事)や子育てなどする内には、苦しい事やつらいことが次々に発生します。明日や1年後まで、持ち越さなければならない悩みや焦りもあります。自分独りでは解決できないこと、その思いや出来事に囚われて振り回されて生きているのが人間です。人生の喜びより苦しみの方が10倍も100倍も多いのが、この人間(組織)社会です。生きている限り、この社会から逃れることはできません。自分が思う限り一人ヒトリ、この悩みから抜け出して自分の思うまま生きることはできません。

宗教や哲学や精神・心理療法や瞑想・坐禅や、趣味や娯楽やスマホやスポーツなど、人生の一時期、何かに救われることはあっても、誰もが独り寂寥の「無常観」を持っており、それを取り除いて楽しい事だけに生きれるものではないのです。

何故(WHY)という【想い】を知ること・・坐禅・瞑想

何か・・自分の為に役立つ、利益になる・・そんなことの為に坐禅(瞑想)がある訳ではありません。社会や自分に価値あることなら、他人を押しのけてもドンドンやればよい。犯罪の隙間をねらってとか、新規の発明で巨万の富を得るとかスレバよいのです。しかし・・人間には・・ヒトリ眠る時とか・・子供の寝顔を見ている時とか・・誰でもに・・寂寥(せきりょう)の時があります。「どうして?」とか「何故?」とか、どこからか、ココロの片隅から湧いてくる「WHY?」の想いです。

この価値なき「WHY」の想いを、タッタ3分間・・数息1回10秒程度、6回(60秒)×3回=180秒・・独りイス坐禅で1日1回やってください・・と、お話しています。

でも、これをしたから何かの足しになるのか?利益になるのか?・・答えはハッキリしています。

絶対に「役に立つ」こと・・ではありません。

坐禅は 禅境の、かえって邪魔になることがあります。

これを、1回60秒程度の「南-無-阿-弥-陀-仏」で3回とか・・「神よ・・我を救い給え・・アーメン」で3回とか・・念仏禅とか、祈り禅とか・・祈っても祈っても神仏は、現世で安心(あんじんと言います)を与えてはくれない・・つまり役だタナイ坐禅・瞑想を推奨するのは・・自分のココロの中の「WHY」に、一番近ずきやすい方法であるからです。仏教でいう、集中とか三昧(ザンマイ)の境地です。

ただし注意を要するのは・・三昧の境地ですら、何かしら社会や自分の利権に役立つ出来事であることです。例えば職人さんとか、スポーツ選手とか、スマホとか・・パチンコ、麻雀だって我を忘れる三昧境地が存在します。

私は愚禿親鸞(ぐとく ハゲバカのしんらん)を信じます。あの方は在家仏教(浄土真宗・・寺を持たず妻帯して)弥陀の本願を説かれました。中世、大徳寺一休宗純も帰依したとのことですが、反対に、親鸞さんは立派な禅者であったとも思えます。妙好人という「禅者もどき」の人を輩出しています。

本願寺の信徒ではアリマセン。キリストは日本流に言えば在家神教の素晴らしい神の子と思いますが、バチカンのキビラヤカな法王さまや神父組織は信じません。山奥の修道院の修行者なら少し信じます。

ヒトリ自分の「安心」は 自分でしか体験認知できません

坐禅は「青い鳥」を探しまわるココロのザワツキ=功徳を無功徳(役立たず)に調心するために行います。

◆たったの・・それだけの事が心底わかったなら・・独り坐禅は卒業です。

坐禅をする・・留意・意識は禅の魔境(地)です。高校を卒業したら、逆戻りで二度と高校に入学なされるな・・といいたい。留年して5年も10年も、坐禅に明け暮れる人もいますが、そんな他人は関知せず、有料瞑想、有料坐禅など・・放っておきなさい。

碧巌録から無門関を読み返すことです。三昧がサトリではないことが体験できます。

坐禅離れの話は、これから順次、禅者の一語でも、禅のパスポートでも展開します。

これは下原稿抜きで書いています。

有(会)難とうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「禅」とはナニか・・?

羅漢と真珠

      禅とは何か?

        坐禅とは何か?  

禅とは、達磨(ダルマ)の無功徳(ムクドク/役立たず)・・を体験・自覚する事です。

  それを「禅ニヨル生活」といいます。

坐禅とは、独り・・(3分間約18回の数息呼吸の間)姿勢を正し、眼を半眼にして椅子に坐っていることです。

 これを寂寥の「独 接心」(ドク セッシン)といいます。

    ・・ただ それだけです。

 道元禅師は「眼横鼻直」と答え、臨済禅師は「乾屎橛」(トイレ紙)と答え、世尊は黙して「拈華」し、微笑した摩訶迦葉に付嘱された「何か?」の・・答えは、問いを発した貴方の・・問いを発した中にこそ、真に貴方の納得できる答えがあります。

何のことは無い・・独り一人にある「禅」は・・自分が自分に問わなければ・・釈尊に祈っても、寺僧に問いかけても、万巻の書を読了しても、絶対に答えは理解できません・・

つまり思考を思考することができない欠陥頭脳の人間が、自分一人で坐禅をする中でしか、自覚・発見できないことなのです。

禅を世界に広めた禅者(仏教学者)鈴木大拙翁は、禅(ZEN)に入門したければ、自分で机の端を、ノック(コンコンと叩いて)そこから入門しなさい!と言われています。

般若心経の初句に行深般若波羅密多時とあります。

何か、エタイの知れない般若ハラミッタを深く行ずる時・・という・・前提条件があるうえで「色即是空」と書かれています。要は、独り坐禅をすることが前提で、釈尊や面壁達磨の・・あるいは、四条大橋の人通りを深山木に見立てて、乞食坊主の独り坐禅があり、不生不滅が・・あるのです。

しかも、この空/無の、自覚・体験を「悟り」(証・覰破・解脱)と云うのですが、煩悩無尽誓願断(四弘誓願)と、何万遍、唱え祈ろうと・・煩悩即菩提の「禅」は、断ち切れるようなものではありません。

せっかく、東洋、日本に禅を尋ねてやってくる求道の人たちに、この電磁的通信手段で、禅の真実をお知らせする次第です。

古に純禅に生きた禅者の面影を追い求めた處で、アナタは、心からの安心は得られないでしょう。

科学的な、対比思考する哲学の西洋文化とスペル文字は、漢字で言う「如・妙」や「無明・心無心」の意味を表記できず、理解できない宿命にあります。まして女性は三界に住することが出来ないとする、仏陀のイマシメ(例え)ですら、今や人権侵害だと糾弾されるアリサマです。本当は・・女性は、母性・慈愛(慈悲)溢れるゆえに、煩悩に執着して消し難たい(捨てがたい)ので・・だからナカナカ悟れない・・の意味なのです

禅は、欣求したり、祈願したりする宗教ではありません。

長い禅の歴史では、寺僧の揺籃を得なければ、伝燈できないことも多々ありました。

しかし、現代・・この日本の禅は寺僧の接ぎ木や温室栽培のおかげで、絶滅危惧種どころか・・天然のアユと同じく絶滅種となりました。

どこの禅寺でも、観光(料)禅と言うべき、寺僧の生活・商売=生業(ナリワイ)に堕落しました。拝観料と称した1カ月の売上げが何百万円とか・・また、例えば、良寛の・・たむし薬や、白紙の紙ほしさに揮毫した禅境書画が、何百万円で取引される、あさましい資本主義の有様です。

いま残された「純禅」の道は、仲間・組織や金銭に絡まない・・本当に「独りポッチ」の無価値な坐禅を、誰か一人でもよい・・続けてくれることです。

悟りや安心を期待しない、無功徳・役立たずの坐禅を、例え3分間でも椅子に坐って行ってくれる人がいればと願っています。それから・・その「独り坐禅」ですら、捨て果てる・・禅境(解脱)となってほしいのです。次回 解説します。

その思いで、無門関・碧巌録の意訳を、電磁的に空中散布しています。

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                              有(会)難うございました。 

禪とは何ですか?正しい坐禅の仕方とは・・?

禅とは、達磨(ダルマ)さんの無功徳(ムクドク/役立たず)・・を体験・自覚する事です。

 

坐禅とは、独り・・(3分間約18回の数息呼吸の間)姿勢を正し、眼を半眼にして椅子に坐っていることです。

これを寂寥の「独 接心」(ドク セッシン)といいます。

                       以上・・ただ それだけです。

                       有(会)難とうございました。

心臓か・・ハタマタ尿もれか・・失敗すれば「シンゾウ!」

元服の書 NO50   

中学・高校生とその親御さんたち第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

自分とは「何者」ですか?

「いったい何者なんだろうね・・私とは・・」75歳を超えて、なお「?」です。

先日(8月末)3日ほど入院して、心臓にカテーテルを入れ、ステントが装着されるのをモニターで見ていました。

傍に会社時代からの循環器内科の先生が付き添って、まだあと2か所、詰まりかけているとか、いろいろ説明してくれるのを見聞きしながら・・イマ コノ鼓動ガ止マレバ、ワガ人生、終リカ・・と何似生(カジセイ)でない自分・・独りの自分・・無価値(役立たず)の自分・・ギリギリのところで一句を道え・・とエラそうに、自分が自分に問いかけているのを、笑いたくなりました。でも笑えませんでした。

私は、前立腺肥大(糖尿病で、緑内症で白内障)で、尿意をこらえて、あと何分ぐらいで終わるんだろうか・・ココで漏らすと大変だぞとひたすら1秒ごとの重大さを噛みしめていたからです。

尿意をこらえている膀胱と、ステントを入れられつつある心臓と、どっちが自分だろうと思う自分。

独り坐禅で、その答えは見つけて覚悟したつもりでも、まだまだ「禅ニヨル生活」に到らぬ自分に気づきました。

また、コロナ騒ぎで、病室の11階エレベーターは、鎖で封鎖され、下の売店アンパンを買いにも行けず、結果・・1日1500キロカロリーの病院食のおかげで、2、5㎏の脂肪を落とすことが出来ました。

さあ・・私の「日々好日」のどこが不幸で、何処が幸せか・・当ててごらんなさい。

私は・・

「カクレンボ ゴハンですよ・・の声かかり」

  の子供の遊び心を味わうことができました。

                         有(会)難とうございました。

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「ア・ワ・ワのワ」・・赤子泣き、母はサッソク手当する・・キョトンと泣き止む・・ナントとっさの至芸を看てください!

赤子泣き 口に手当ての「あ・ワ・ワのワ!」

元服の書 NO48  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答え書いています

千年前の禅語録「無門関」や「碧巌録」・・何から読めばいいのでしょうか?

禅(ZEN)について・・変な言い方でスミマセンが 読まない方が・・知らない方が・・無難です。私の奉魯愚・・羅漢と真珠ですら読み捨てて、貴方自身の心の声にしたがって3分間「独りイス坐禅(接心)」をなさることです。

例えば、圓悟克勤(1063~1135 えんごこくごん)の撰述した碧巌録は、禅語録の中でも、もっとも僧堂の師家に提唱され、公案坐禅に必携の書であると云われています。この圓悟の弟子 大慧宗杲(1089~1163 だいえしゅこう)は、臨済義玄の棒唱看話(かんな)禅を標榜して、当時の中国、曹洞系の宏智正覚(わんししょうかく)の綿密な黙照禅と真っ向から対峙していました。いわゆる禅宗団体の勢力争いです。

大慧は 臨済宗、中興の祖ともいわれる禅者です。門下の僧(求道者達)が、禅語の文字解釈に埋没して、坐禅実究を疎(おろそ)かにするのに憤慨し、また、世間と遠離して立ち枯れ禅(坐禅するだけ)に居着く禅学者風(曹洞系)僧侶に反発して、禪宗全派のバイブルとも言うべき碧巌録を焼き捨てた・・大事件がありました。

 

もし大慧が、現代(2000年の後半)・・日本の禅宗を見たら、どうなるでしょうか・・近い未来には、宗教法人は解体され、僧侶は従業員として甲斐甲斐しく働き・・観光ホテル業と懐石料理店の、一大観光禅のフランチャイズ・チェーンが出現しているかも知れません。

それに心理・精神病の研究大学と病院施設に坐禅が取り入れられて単位取得の医学に変貌していることでしょう。

時に風狂一休宗純や正受老人・白隠慧鶴、月舟宗胡、信長に焼き殺された快川紹喜、大愚良寛や乞食の雲溪桃水など、時世の波間に現れた刮目(かつもく)の禅者はいますが、釈尊から達磨、大鑑慧能までの、純禅の系譜を調べても「乾坤(けんこん)ただ独り」・・に撤した禅者は極めて少数です。

 

口先だけの(蕎麦屋の釜の中・・湯yuuばかり)の学者(まなぶもの)は、禅に不要です。例え、一日に1回、3分間だけでも、数息の独りイス坐禅する者がいたら、キット千年後、月社会か、火星社会か、はたまた土星を開拓するために飛び立ったロケットの中で、坐禅するアストロノートがいることになるでしょう。禅を集団で修行する時代は終わりました。独り一人に、それぞれの禅がチャントあります。気づかないだけです。自覚できるのは、独りで無功徳(役立たず)の坐禅する人だけです。今の貴方に、いくら言葉や文字(本)やスマホやPCが、迷いや誤解、妄想(悩み)のもとになっていることであると説いても、絵にかいて見せても、それが、さらに迷う原因を作って、コダワリとなるのです。知ったかぶりの碧巌録や無門関・・その語録の逸話(則)はその登場人物たちの禅機(悟りのキッカケになる出来事)禅境(地)を劇場での観劇に仕立て上げているにすぎません。禅で言う「無」や「空」は、つまずいて「アイタ・タ・タ」という、そのどこが無であり空なのか・・自覚できない輩には、説明のしようがないのです。

この電磁的情報社会は、禅を紹介する・・とりわけ「独り坐禅」を広める絶好のツール・媒体です。眼に見えない電磁波が、一人独りに、地図や処方箋、効能書きを与えてくれます・・けれど、南極で北斗七星を探したり、絵に描いたモチを食べようとしたり、ただの処方箋を頭痛薬にしたりしている現代人・・いわゆるスマホ(情報)・文字(風説)依存症にならないよう、つねに「看脚下」足元を見るではなく「看」ルに・・注意してください。

 

サテ・・何から読めばいいのか?の質問には「何も読むな!何も言うな!」が答えです。独りイスに黙して坐るのみ。

あるいは、いささか穿(うが)ち過ぎですが・・竜安寺の手水鉢・・【知足】の【吾】レ+【唯】ダ+【足】ルヲ+【知】ルの「口」に 手洗いの水が溜まっているのにご留意ください。

                          有(会)難とうございました。

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