年に1回、たった1日の1440分の1だけ黙祷できた人・・手を挙げて!

元服の書⑬ 

8/15⇒1日のタッタ1440分の1だけ・・生かされてある社会に黙祷・感謝できた人・・を挙げて!

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 

あり得がたい出来事を「有り難う」という・・

現代において「ZEN」に出会うことは、あり得難い低い確率です。確かに、本やPCで「禅」を検索、調べれば、イヤというほど案内は出てくるし、禅寺や茶華道、柔剣道、弓道など関連した項目は出てくる・・ケレドモ・・それではソノ内、坐禅の経験の有無はどうだろうか。

紅葉や桜の名所は・・とか、精進料理や、湯豆腐の、閑静なところは何処ですか・・とか「3分間独りポッチのイス禅」を提唱している私に問いかけてくる人がいた。

「役立たずの坐禅」をやれる人に教えましょう・・と言うたびに、こうしたガイド役はなくなってきたが、とにかく、子育ての母親がなっちゃいない。ここから字を小さくして、私の一般論です。

まず生涯の趣味がない・・新聞を読まない。料理と云えば食べに行くだけ・・夏休みの子供ずれに回転寿司は大流行である。

モチロン男の場合も同様で、TPOをわきまえないで女を追いかけまわすのも情けない。

便利になったスマホ(デジタル)社会・・ここ50年ぐらいの転換期の、ドサクサ時代の現象でしょうが、誠実な人付き合いをする方たちは、都会から脱出して田舎暮らしをされたがよかろう・・(と思えるような)時代です。

 

8月15日、天皇と共に、戦没者慰霊の黙祷の時間・・タッタ1分間。目を閉じて祈念できた人が・・この日本に・・何人いたことだろう?

タッタの1分間・・365日の内で、この日=1日の内の1440分の1の間・・自分が生まれた、この奇跡の出来事・・あり得がたい社会の人々のオカゲで、米粒一つ作れない自分が、生かされてある不思議に、感謝する黙祷、瞑想、坐禅・・何でもいい・・心から誰かに「有り難う」と言えた者が、どれほどいただろうか?

また、「禅」との出会い・・その出逢いがたき事のご縁をさぐって、有難うの言葉にWらせ、会い難きことを・・この奉魯愚の終りに「有(会)難うございました」と書いているが・・。

有(会)難うございました。PCで「あいがとう」と打つと、どことなく忠告めいたヒトコト・・「愛が問う?」と出てきます。

PS・・今回、何が言いたかったと言えば、難しく禅と文化、哲学、宗教を結び付け、ことさらに有難みを訴求することはやめて、今は、タッタの三分間程度の「坐禅」を、生活習慣に取り入れることを推奨したい。

一日1440分の3の時間を、何事にも役立たない、貢献しない、ご利益もない「坐禅」に費やしてほしいと思います。1分の黙想も出来ない人に、3分の坐禅が出来るのか・・と言われれば、ソレまでです。が・・感謝や冥福を祈ることが出来ない人でも、役立たずのままに坐禅はできましょう。 

 

禅・羅漢と真珠 ◆元服の書 ⑫ コピペ根性は捨てましょう!

元服の書⑫ 

 禅は、どこで学ぶか・・教えてください

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 

世界中から「ZEN」を知りたくて、日本へやって来ます。私も坐禅を学びたいのですが・・どうすればよいか教えてください。

 

唐突にお答えします。

「禅」は、いくら、学習したり、修行したりしても習得できるものではありません。よく言われる「悟り=見性・透化・大覚」などの体験の仕様(TPO)は、すべて・・役立たずの坐禅や考えも及ばない公案粘弄(コウアン ネンロウ・・碧巌録、無門関などの禅語録の考察)と、日頃の生活態度、正直な仕事の年月など、ひとり独りで違うのです。

禅語録には、沢山の禅者が、偈・頌(ゲ・ジュ 悟りの漢詩、心境)を歌っていますが、同一の禅機(悟り)・同一の禅境(地)がありません。例えば、暁の明星を看て(これは釈尊)とか、大喝一声、耳が聞こえなくなってとか・・梅の香りをかいで・・お墓を掃除している時とか・・箒(ホウキ)で叩かれて・・とか、突き倒されてとか、風呂で体を洗っている時(これは私の場合)など、ひとり独り、突然、閃(ひらめ)いて体覚=直観するのだ・・と言えましょう。

ただ、ハッキリしているのは、禅寺などでの集団の坐禅会や瞑想会、写経や精進料理の観光気分では、純禅に程遠い出来事です。

大事なのは、独りであること。折々に、3分程度、生活の中で「坐(行)禅」をすることと、「公案」を読んだりして・・フト心のどこかから湧いてくる「?」・・疼きを意識することがベースになっています。

ですから、ガムシャラに、著名な寺僧(師家)の教導を受けても、あるいは相見師事して、僧堂接心で両足が死ぬほど(これは外人さんの表現です)難行苦行を続けても、大悟徹底はまず無理でしょう。禅寺の跡継ぎ予定の若者たちが3年ほど温室栽培のイチゴ(一悟)顔で飼育されても所詮、養殖もの。そんな資格を取りたくて坐禅する・・心の悩みや不安を解消したくて坐禅する・・為に、その仕方を教えてほしい・・学びたい・・では、見込み無しと、冷たく断言するより方法がありません。甘えてはいけません。アナタの心の奥底から湧いてくる悩みこそ・・その気にかかる心の疼きこそ・・アナタだけが解決できる・・アナタだけが対応できる・・大事な大転換の素(もと)なのです。櫱(ひこばえ)の大樹となる山河大地であると心得てください。

どうぞ、友人との語らいやスマホやパチンコなどで気を紛らわせないでください。それらしい先生や本(知識)や、誰かが楽し気にやっていることに魅かれてはなりません。何か誰かから教導を受けられるのでないか・・と思うこと・・それが一番の甘えなのです。コピペ根性は捨てましょう。

世界(欧米)に「ZEN」を紹介した禅者/仏教学者の故、鈴木大拙先生は、禅を知りたいという人に対しては、直ちに、その場のテーブルを叩いて(ノックして)「ここから入りなさい」と言われたそうです。

 

欧米の方は、英文で書かれた「Living by ZEN・禅による生活」を読まれるよう推奨します。日本の貴方には(あなたのお年を知りませんが)何の役にも立たない3分間独りポッチ禅をお奨めします。そのおりおりの坐禅に、矛盾した問答の答えようもない・・碧巌録と無門関の意訳の1則を眺めてください。禅語録のモトモトが、すべて矛盾した問いと答えですから、ナントカ論理(哲学)的な解を得ようとしてはなりません。味気ない飴玉をしゃぶるように、禅の問答を眺めてください。トイレや仕事前、寝る前など、ホンの3分間の役立たずの坐(行)禅です。

何の取柄や、効果もない、独りポッチの坐禅こそ純禅です。以前、質問で、両手は印を結ぶべきか、両膝におくべきか・・どうすればよいのか・・とお訊ねがありました。答えは・・寝ている時両腕、両手どうしていますか・・お好きにどうぞ。無理せず、気楽に・・どうせ、ご利益(ゴリヤク)のない、ただ坐りです。

(注)坐禅のザは座ではなく「坐」⇒土の上に、人がバラバラに・・独り、ヒトリ居る状況を言います。

電磁的情報社会であればこそ「独り」であることを自覚しなければ、祈りや生活がフワフワして夢のまた夢、実地立脚しません。

 

 

何が一番、素晴らしいこと?と、問われれば・・

大学以来の友人や知人から、独りよがりの禅語の意訳だ・・との指摘があり、反省して・・酷暑見舞いのハガキの禅語・・解訳いたします。

碧巌録 第二十六則 百丈 独坐大雄峰(ヒャクジョウ ドクザ ダイユウホウ)

      問う・・如何なるか 是れ奇特のこと。 

      丈云く「独り 大雄峰に坐す」

モウレツ熱暑のその時は、独りポッチのイス坐禅、3分間だけお勧めします。

不二(富士)山も、昔 訊ねたキリマンジャロも、ナンダ 洪州、丘如きの百丈山で 襤褸(ぼろ)着た禅者、(百丈)懐海の一語は 清風渓谷に満ちて値(あたい)千金・・

 

解説 日本の代表たる富士山や、昔、一杯のコーヒーを求めて訊ねたアフリカ、タンザニアキリマンジャロも、大雄山の名にふさわしい。

・・が・・ナンダイ、この中国、洪州の海抜千メートルにも満たない、岡如きの山の名が「大雄山」とは。

だが、しばし待てよ・・今から1300年昔、玄宗皇帝と楊貴妃の退廃した時代に、この孟宗竹におおわれた深山(5岳のひとつ南岳。幾段にも分かれた黄檗の滝もある)で、ボロをまとった一人の禅者が、高らかに「独りポッチ坐禅」を宣言したぞ。

宇宙の中で、最も「奇跡的無意味な出来事は、これ、このとおりだ」・・と。この禅者の一語。清風 渓谷に吹きわたって、値(あたい)千金。

  • 百丈懐海(えかい 720~814 中国江西南昌市(洪州こうしゅう)大雄山=別名 百丈山に禅庵を構えた禅者。弟子に・・臨済宗始祖 臨済義玄(りんざいぎげん)、潙仰宗始祖 潙山霊祐(いさんれいゆう)仰山慧寂(ぎょうさんけいじゃく)がいる。

彼の生まれたのは唐の玄宗皇帝35才の時、楊貴妃は1歳。

楽天「春寒く華清地に浴を賜う、温泉 水滑らかにして凝脂を洗う」長恨歌の時は、玄宗皇帝70才、楊貴妃36才。

国は乱れ、民衆は頽廃。ちょうどその頃、百丈懐海は、師の馬祖道一の元を辞して、独り 洪州の山奥、大雄山に禅居して長養していた。その折の禅問答。

 

◆坐禅の仕方を教えてください

元服の書⑩ 

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

坐禅は、どのようにすればいいのですか・・教えてください。

貴方は、毎日、顔を洗いますね。歯を磨いたり、口を漱いだり、男ならヒゲを剃ったりします。

それをしないと、1日中 なんとなく気分が落ち着きません。坐禅も、そうした習慣化できれば、OKです。

朝、起床した時、椅子に坐って、3分間。姿勢を正し、目を半眼にして、肩の力を抜き、ゆっくり1回の呼吸(10秒~15秒)を、ヒトーツ、フターツと数息して6回。またヒトーツ・フターツ~ムーツ。もう1回ヒトーツ~ムーツで計3度18回でOKです。

夜も、寝る前に顔を洗ったり、歯を磨くように、イス禅18回の数息呼吸ができたら、いいですね。別に椅子に坐らなくても、寝ながら、寝禅で寝入ってしまうのもイイでしょう。

要は、「坐禅」は、集中、修行、鍛錬とばかりに、無理やり、骨折りの努力、目標にしてはなりません。正座や結跏趺坐(けっかふざ)は、慣れない人(特に外国人)には、無理強いしてはなりません。姿勢さえ正しければ、手は膝に乗せるか、両手を結んでおくか・・肩の力を抜いて楽で静かな呼吸(数息)に集中できれば、独りポッチ坐禅です。

これなら、外国人も、ワザワザ日本まで来て「ZEN」を学習したり、寺僧の研修を受ける必要はありません。

坐禅で一番、いけないのは、坐禅をすることで何か、良いことがあるのを期待することです。中国、臨済宗の始祖、臨済義玄(リンザイ ギゲン 不詳~867)は、心に「造作する」として激しく否定しています。

欧米に「ZEN」を広めた、仏教学者(禅者)故、鈴木大拙博士は、キリスト教関係者が日本伝来の「禅」を学びたい、入門したいと乞われたら、手前にあるテーブルやドアを「コツン・コッン」とノック(叩い)して「ここよりお入りなさい」と教導したそうです。

 

確かに「禅」は、独りポッチ坐禅をすることが始めであり終わりです。それは、まず数息呼吸の、無理しないイス禅からお始めになるのがよいでしょう。数息だけで、何の造作、想いもない坐禅に成ったら、次に数息を忘れて、千年前の達道の禅者たちが編纂(へんさん)した、無門関や碧巌録など、禅語録のどれか・・アナタの心に引っかかる【一則】の垂示、本則、偈などを素直に読み返す気持ちで(これを粘弄・ネンロウといいます)繰り返し味読してください。解かったつもりの解説不要!

碧巌録は・・【はてなブログ】で「禅者の一語」として意訳。無門関は「禅のパスポート」として意訳中です。

あんまり簡単、単純すぎて、はたして、洗顔と同様に、忘れずに続けられますかナ?

 

「末後(まつご 死にぎわ)に糞をさらして梵天に捧ぐ」・・一休宗純

元服の書⑨ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

「悟り」というのは、どんな心境ですか?

      ●人生 裸(心)で生きるべし・・そんなもんでしょうか・・

それは独り一人に、もともと備わって(持って)いるものです。

悟り(見性)は坐禅をすること・・その心境が、生活の中で身について、行いが、そのまま坐禅となるような心境・・自分一人・・の只中でしか、発見発明できません。

 

その心境は、どのようにしても、決して他人に伝えて理解されるものではありません。

あえて言えば、言葉や文字で判断、理解できるような、理性、思考、論理、哲学、心理学、宗教(三昧)、物理学、量子力学、さらに芸術や職人、スポーツなど・・戦争や集団など・・集中、分別、対比、検証の範疇にアリマセン。

臨済は、禅(心)に「造作」すること・・意識した思い、目的行動、利権組織、罪や罰、自我意識など極端に否定しています。

達道の禅者は、煩悩が、そのまま菩提(ボダイ・・悟り)であることを、坐禅(禅による生活)で体験、熟知しています。

どだい「悟った」とか、「見性」したとか、修行の僧堂師家、老師の印可証明をもらったとか・・忍者の極意書じゃあるまいし、少し独りポッチの坐禅を自らに課してきた者なら、悟りは、どのようにしても表現できない・・乾坤(ケンコン 宇宙)ただ独り・・自覚するものだという自分軸を確信(覚心・核心)しています。

さらには・・鍛錬、修行し研究努力して、その功績があって悟りに至る・・そんな概念(イメージ)を持ったら大間違いです。

むしろ悟り(見性)など、この世にない・・ありえない事として、独りポッチ禅を、3分間、役立たずになさることが初心、素直なおこないでしょう。

アナタは、禅(心)を悟って、どうしよう・・どうしたい・・と思うのですか。

みんなに認められて、教祖様にでもなりたいのですか?

今・・私は、現代社会に生きているので、誰かの・・何かの教導で「安心できる」とか、「ココロが救われる」とか・・そんな嘘っぱちは見聞したくありません。もう齢(ヨワイ)70を越して足腰も衰え、棺桶(ベッド)の中で寝起きする毎日です。

武田邦彦先生がブログ・・http://takedanet.com/ で言われるように「昨日は晴れ。今日も朝」の清々しい気持ちで、晨陽(シンヨウ  アシタ、アサヒ)を迎えたいと思います。

自分では「人生 裸(心)で生きるべし」です。

釈尊ですら、衆生が煩悩するから我も悩むのだ・・と、現在進行形で云われます。愚禿(グトク 禿げ頭)親鸞は「南無阿弥陀仏」と一度だけでも、この娑婆(シャバ)で唱えれば、極楽浄土へ往生できる・・というが、はたして本当だろうか?・・と思うことがある・・と、たしか唯円に語られたそうです。親鸞さんは、弟子はひとりも持たない・・といわれた方ですが、その後の教団組織・・アリャ一体・・何ですか?

私は、東西の本願寺派を信じるのではなく、親鸞さん(独り)を信じています。

日本の禅では一番に一休(宗純)さんです。遺偈(イゲ 死に際の言葉)に・・誰か吾が禅を会(エ)す。虚堂(キドウ)来たるも半銭(値打ちもない)に値(アタイ)せず・・と、自分が尊敬する中国の禅者を唾(ダ)するごとく切って捨てています。

二番目に敬愛する禅者は、大愚良寛さんです。

 

このように、禅者は自分本位の「悟り」など、何の心の支えにならないことを知っています・・そんな思い(煩悩)を消却(償却)して、地域の人々と一緒に、日常の暮らし(禅による生活)をしているのが真の禅者です。(例え悟ったにしても日頃の悩みは尽きず・・が本当です)・・よく、どの宗派でも坊さん達が、昔から「煩悩無尽誓願断」(ボンノウムジン セイガンダン)と、四弘誓願(シグセイガン)を唱えますが「煩悩即菩提」なのに、ワザワザ、どうして誓願までして「断」ずることをしたいのだろう・・?と疑問です。

今回も、解かったようで、解からない話になりました。

愛が問う(PCの打ち出し文字)・・有(会)難うございました。 

 

◆元服の書⑧ 孤独ということ! 7/2修正追記

元服の書⑧ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

「孤独」と云うこと・・

「独りポッチ(禅)」について・・

6月29日 若者からの問いに7/2追記して、私(禅者)の意見を書きます。以下「孤独」について・・「若い頃、孤独感や坐禅をどう思っていたのか」・・のお尋ねがありました。

私は京都から、明治大学に入るために東京に出ました。戦前から、父が鎌倉の鈴木大拙翁(仏教学者、禅者)に師事していたご縁で、円覚寺続燈庵(焔魔堂の弓和尚 故・須原耕雲老師)に寄宿して、お茶の水まで、横須賀電車で通学していました。チョウド60年安保騒動(デモで東大の樺さんが亡くなられた時)で、全く、頭デッカチ・・禅の本を読み漁るだけの生意気な盛りです。そして、中年の時期は、仕事にかまけ、独りポッチ禅は、寝る時の催眠作用に利用するような、いい加減さでした。どうやら本気になったのは、碧巌録や素玄居士の無門関提唱の意訳をし始めた・・65才を過ぎたあたりから・・ですから、禅は年季が入っているからとか、集注心や命懸けの修行をしたから・・といって、悟れる代物じゃないですね。これは禅のパスポート/素玄居士の無門関提唱・・意訳に、ハッキリ出てきます。・・以来10年~を過ぎて、今なお第2稿あたりでウロツクありさまです。碧巌録、無門関の意訳は脱稿するのに、あと3年~5年ぐらい・・下手すりゃ生涯無理であの世になるかもしれません。その時はごめんなさい・・と思っています。(どうぞ、今の内に読んどいてください)

禅は「色即是空」といい、唯我独尊、無功徳とか、本来の面目とか、無心とか・・独坐大雄峰、平常(心)是道、日々是好日、天地同根とか・・孤独とか・・イロイロ言いますが、有名な禅語の一語を、論理的哲学的に解釈して解かったつもりでした。

でも、皆さん・・若者には、これだけはお願いしておきます。本を読まれますように・・。棺桶に両足が入る年になって、学生時代からの禅語録を再読すると・・赤線を引いたところ、ことごとくが大間違いであることに気付くのです。

「悟り」の文字は「吾がココロ」と書きます。

人生に「?」と思ったことの解決は、何十年たとうと、あなた自身、私自身の解決でないと「安心」できません。その安心の地図(本)が先達の禅語録です。語録の表題(タイトル)のことごとくが・・「孤独」の一字で収まります。

禅者の遺偈・・すべてが「無」の一字で事足りるのです。

心頭滅却すれば火、自ずから涼し(快川紹喜かいせん じょうき)恵林寺天正十年四月三日信長に反逆し焼殺された偈(心境詩)も、死に臨んで朦々淡々(モウモウタンタン)六十年、末期(マツゴ)にクソを晒(サラ)して梵天に捧ぐ(一休宗純)も・・どんな時であれ坐禅は独りポッチ・・唯我独尊一字で完結、圓融していると覚悟しています。

若い時こそ、本を読むべし。本は心の食べ物です。そして・・役立たない「三分間独りポッチ坐禅」こそ、大事な胃腸の消化作用です。

(社会的な問題として取り上げられる「孤独感」については、社会学者や心理学者、宗教学者などに任せておきます)

私の場合、一番大事な言葉・・釈尊の「唯我独尊 ユイガドクソン」と自覚された・・その「孤独」についてです。

釈尊は、菩提樹下の悟り(ひとりポッチの坐禅)の後、アチコチ行脚されて、いわゆる「仏陀の教え=仏教」を、説かれました。

釈尊の悟り=「禅」は、言葉や文字で言い表せない・・拈花微笑(ネンゲビショウ 無門関 第6則 世尊拈花)として、一人ひとりの坐禅(禅による生活)に根差しています。禅はインドの菩提達磨が中国にわたり、そして日本に伝来しました。

禅が、さも宗教的に見えるのは、寺僧による生業(ナリワイ、組織的な生活手段・方法)であったからで、そうした寺僧の揺籃期がなくては、キット禅は途絶えたことでしょう。

だだし、現代に至って、観光禅化したり、国際化したりして、独りひとりにあるべき、純禅の発見発明はなくなりました。

以下の事例に挙げた禅者に限らず、あまたの先達が、独り・・ひとり・・の風雪の時代に、禅は滅びました。そして、また、宇宙のどこかで、新たに花開くこととなりましょう。

  • 大愚良寛(タイグ リョウカン)は「悲登利」ヒトリ あそびぞ われはまされると自画像に自賛して、良きかな道 うたた寛(ヒロシ)の人生を謳歌しました・・「うらを見せ おもてを見せてちるもみじ」彼は世間からの逃避ではなく「乾坤(宇宙で)ただ一人」の世界に徹した禅者でしたから、素直な遺偈(いげ)を遺しています。

    *遺偈・・死に際しての最後の言葉・詩文などの意。

  • 博多の仙厓義梵(センガイ ギボン)は、洒脱な禅画を得意とした庶民の中の禅者です。かねてから仙厓は・・人生は「独り生まれて、独り死んでいく・・「生まるるを死ぬるはじめと我は知る、始め有る身の終らましやは」・・と「独りの禅境」に徹してこその 禅者の一語を残しています。
  • 日本人なら誰でも知っている、あの一休(宗純 そうじゅん)さんは、イッパイ飲み屋にも、女郎屋にも足を踏み入れた風狂の禅者ですが・・「行脚こと畢(おわ)る。拄杖子(しゅじょうす)を折り六月の雪に焼く」・・人生の長旅(88年の生涯)の杖をおって、夏に降る冷たい雪に焼き捨てよう・・と道(い)われました。

*一休狂歌「門松はめいどのたびの一里づか、馬かごもなくとまりやもなし」「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」遺偈「須弥南畔(シュミナンバン この人間社会で)誰か我が禅を會(エ)す。虚堂(キドウ)来たるも半銭に値(アタイ)せず」

*ここに挙げた、いずれもが、絶対的な時間・空観・・「独り」を道(い)い当てた禅境(地)なのです。

*道と書いて「いう」と読みます。単に口で喋るのでなく、生活の中で行う・・実行する姿そのものを「道う」と書いたのです。

*禅者の遺偈については、古田紹欽著「禅僧の遺偈」春秋社を参考にしました。

「禅」は、坐禅して深く「独りポッチ」で沈潜する作業(心の働き)です。昔、アメリカで流行したZENのように、麻薬的な心理状況でもなければ、茶華道などの趣味教養や論理・哲学・宗教・倫理でもありません。人間の社会的な生活を尊重しながらも、それに関与するものではない・・また「求道、欣求」する・・とか、難行苦行の修行で得られるような境地でもありません。

ただ、ココロに湧く「寂寥感」を友として何の役にもたたない・・たったの3分間「独りポッチ」坐禅を行う・・【孤独】そのものです(参照・・碧巌録「聖諦第一義」第1則)

自分一人、試行し錯誤し・・独り、自分(行い)に迷いながら、ようやく自分だけで発見発明して、安心にたどり着く独行です。

禅機(悟りの発明=キッカケ)や禅境(地)は、独り一人・・それぞれに深浅がありながらも、自覚する前から、それぞれに身についています・・から、ひとり坐禅でのみ自覚できるのです。

寺僧の教導を受けたり、本や講演・提唱など、二人以上の団体、教師、友人知人と集って学習して得られるものではありません。

(語れば語るだけ、文字にすればするだけ、迷いが増え、執着心が増えてきますので、できるだけ、独りの条件を整えて坐禅なさることです)

私が意訳している、千年前の禅語録「碧巌録」や「無門関」には、どのページ、どの則を開いても「独り」・・何にもコピペされないお前さんは何だ?(何似生 カジセイ・・何に似て生きているのか?)・・唯我独尊の自分とは何だ?の問いかけと、その答えが満載です。

例えば・・無門関「倩女離魂 セイジョリコン」第35則。「達磨安心 ダルマアンジン」第41則。

碧巌録「百丈野鴨子 ヒャクジョウ ヤオウス」第53則、「道吾一家弔慰 ドウゴ イッカチョウイ」第55則・・などの公案をひも解くだけで、円周率の計算のように・・言葉・文字の限界、思考の臨界点に行きつきます。

も一度、道(い)いましょう。

「弧独」とは、色即是空・天地同根を実体感する・・独りポッチ(禅)の意で、ただ・・寂寥感を道ずれに行脚する「禅による生活」なのです。 

会(有)難うございました。・・PCでキーを叩くと「愛が問う」と浮かび出てきました。

 

すべては「すみません」と「ありがとう」でカタがつくのに・・6/18(月)追記

元服の書⑦ *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、

        中学・高校生の問いに答えて書いています*

何事も「スミマセン」で始まり「ありがとう」でくくりこむ・・是れ 家内安全・商売繁盛の素!

年を取ると、どうして時間の感覚・・時の経過が早くなる気がするのか・・わからなかった。釈尊や達磨、達道の禅者たちが、無常迅速をいい、時は人を待たず・・と忠告するのか。それは「今=この場所」の、出来事の一つひとつが、どれだけ、自分にとって大切で、愛(いと)しいものであるのか・・そのTPOの生活実感の深まりであろう・・かと、想うに至った。

この結論風な答えは教えられて解かるものではなく、独りポッチ禅を実施するとか、馬齢を重ねるしか自覚する方法がないものでした。

時間の経過を忘れる・・と云えば、例えば、パチンコやスマホのゲームに熱中している時、仕事や趣味やスポーツに夢中の時など・・その心境を仏教では三昧(ざんまい)と言うが、私は、この境地は、単なる心理的な集中力のなせる業(わざ)にすぎない・・と思っている。

(これは、後日、「孤独と独りポッチ禅」について、質問のあったことの奉魯愚(ブログ)の時に話しょう)

閑話休題(カンワキュウダイ=それはさておき)・・世界の平和とか、人類の幸福とか・・大きく言えば・・トランプ大統領と、北朝鮮の独裁者、金将軍さまとの、米朝会談(2018年6月12日)がありました。核やミサイルの廃絶や、忌まわしい拉致事件の解決に・・つまり、国家的な平和や、国民の幸福についての大問題でも、またトナリ近所の、幼子を死に至らしめる夫婦やいじめ、セクハラなどの、小事件の一つひとつでも・・「平和」と「幸福」について・・は、争いのお互い同士=たった2つの言葉を実行しあうことで、争いから幸せにと、変化、実現できるのに・・と思っている。

戦争や、商売や家庭や恋愛など、あらゆる大小の紛争ごとは、たった2つの言葉を、どうしてか・・お互い言わないでイガミアウことに起因している・・と考える。

それは【スミマセン】と【アリガトウ】・・それだけです。

 

私は、自分一人ではコメやパンひとつ作れず、自然や他の働く人々の努力抜きで生きられない100億の生物種の1人=フンコロガシの人間版・・であると思っています。

朝食に飲むサプリメントビフィズス菌ですら、スプーン1杯で100億。宇宙からみれば、人間の繁栄など完全に絶滅危惧種に見えることでしょう。そんな小さな(動物の中では人間だけが・・)憎しみあい、殺し合いする・・どうしてするのか・・何故だろうか? 

どうぞ、アナタも、心の中に問いかけてください。

そして疑問をぶっつけあう教育の場、家庭の場。職場であってください・・いったい・・どうしてなのだろうか?・・?・・?

セクハラ・パワハラで先生やコーチが、警察官が、教育委員や政治家が、捕まったり、プラットホームから線路に飛び降りて逃げ出したり、どうしてするのか・・性教育にせよ、性欲や男女の考え方の違いにせよ、もっともっとお互いに話し合うTPOが絶対に必要なのです。

◆ある時こんなことがありました。突然、山手線の電車の中で、女子高校の生徒3人から先生のセクハラ話を持ち出され、校長までも、もみ消しにアクセクしている・・誰に相談すればいい・・教えてくれと言われました。次の駅で降りる彼女たちに、トッサに答えたのは「無料相談の弁護士に聞いてもらいなさい・・真剣に対応しない弁護士なら、たらいまわしもあると覚悟して、あなた方の立場を想ってくれる弁護士を探してください・・」と言いました。教室で、性病や毛ジラミの事を学んだり、妊娠を予防するコンドームのことを話したり、慰安婦のことをありのままに、意見交換したりできる場がないのが問題です・・避妊手術や悲惨な交通事故現場、梅毒、性病の眼をそむけたくなる現実の映像をシッカリ、監督しながら見せてやることです。口先だけのオタメゴカシで若者は胡麻化されません。

省庁の、にやけた官僚やNHKなどの社員の不埒な言動が、ニュースで取り上げられる時代です。親や学校、教育組織や職場,NHK,新聞、マスコミが信じられない時代が来たのです。(お互いの顔が見えない電磁的社会の始まりです)

◆職場で、主婦の方から相談されました。3月高卒、大学入学予定の娘さんが、妊娠していて相手の大工仕事の男が、家に結婚を申し込んできた・・と言うのです。

両親が将来を期待した娘の一大事。私は・・「娘さんはどうしたいと言われますか?」

「娘は、大学進学は諦めて、結婚して、あとあと余裕が出来たら、年とっても大学に行って勉強したい・・と言っています」:とのこと。私は、思わず唸っていいました。

「申し込みにきた大工の彼もしっかりしているが、アナタの娘さん・・覚悟が出来てるね。アナタが18歳の頃、もしも親に内緒でこんなことを起こしたとしたら、アナタはどうしたでしょうか。娘に託すアレコレの夢や希望はともかく、先様のご両親ともお会いになって、お二人の将来、その決意を、しっかり見守ってあげることが大事ですよ」

・・この結婚話・・「スミマセン」で始り、「有難うございました」・・で、幸せにくくりこまれました。

 

どうですか・・まず、イキナリ諦めたり、絶望したりせず、先生や友人と、忌憚のない意見を述べ合ってください。そして実際のドキュメントを映像で見る、百聞は一見に如かずを経験してください。(安全教育を主催する学校や会社は、お笑いタレントで講演会を開くぐらいなら、事故ドキュメント映像を見せてやるべきでしょう)

 

私は、昔、お尻から煙が出る・・と自慢するほど、学生時代から煙草をふかしていました。それが、ある時、学会発表のための肺ガンの患者さんの手術記録映画を見せてもらったら、一発で禁煙できました。

ジワジワと呼吸が出来ないで死に至る病にかかりたくはない・・の実感です。

また、交通安全、事故防止の新聞キャンペーン記事を書くことになった時、府警本部のお偉いさんから、免許を持つ貴方が事故(スピード違反・飲酒運転etc)を起こしたんじゃ話にならない・・といわれました。

たまたま悲惨な交通事故現場の事例写真をイッパイ見せてもらったので、免許証を返上する覚悟ができました。それから・・30年間以上、月一度のキャンペーン記事(評論)を書き続けることができました。免許証が無くて不便なことはあっても、アンナ悲惨な事故の【加害者にも被害者にもなりたくない】と思ってきました。ですから、事故防止の対策には口先、文字だけのマニュアルや教育でコトすますのでなく【百聞一見にしかず】・・出来るだけストレスの起きない工夫と指導で、ドキュメント映像を見られるよう、またひとり、ひとり、皆が意見を言い合うTPOを・・提言します。

サテサテ・・自分で答えを見つけなさい・・と言うだけでした。スミマセン。

6/18(MON)追記・・本日の大阪北部地震に関する武田邦彦先生のブログ「地震:科学者(界)は御用学者を追放しよう!」を拝見。賛同しました。どうぞ皆さん・・先生のブログ・・http://takedanet.com/   をご覧になることを推奨いたします。これから30年間で起こる地震の確率(●%)とTVなどに出演して報道する・・(政府・文科省(官僚)、NHK地震研究番組ともどもに)援助金をもらっている東大系御用学者。その地震や噴火警報の)組織や研究の取り組みを改め、もっと基本的な研究に真摯に努力する学者を大切にする体制づくりに、科学者は御用学者を追放する声を上げてほしい・・と言われています。自分の利権の為に、災害の学問と人の命をないがしろにする学者やNHKは要りません。

有(会)難うございました!