至道の禅語⑷ 百尺竿頭に一歩を進める・・とは?

至道の禅語⑷ 百尺竿頭 進一歩(ひゃくしゃくかんとう いっぽをすすむ)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:竿頭進歩とは?

高い場所で、およそ30メートルの竿先にたどり着いた者に対して、ゆらゆらする竿先から、何もない空間に、さらに一歩踏み出しなさい・・という禅語・・無門関 第四十六則 竿頭進歩(かんとうしんぽ)に由来する禅=公案のタイトルです。

孟宗竹(もうそうだけ)を、高い場所に差し渡し、竿先まで歩き・・さらにその先に踏み出してみよ・・という、坐禅、禅機(悟りに至る動機)の意味ですから、孟宗を「妄想」に置き換えて、これを断ずる・・煩悩無尽誓願断(四弘誓願)とする見方も出来ましょう。

でも反論です。純禅では、煩悩を断ずること(煩悩無尽誓願断・四弘誓願)は計らい、造作であり、欣求すべきではない・・逆に、煩悩こそ菩提(悟り)であり・・煩悩即菩提・・故に独り一人に禅(悟り)がある・・としています。

要は、坐禅(坐具、座布団)の上で、一度(自我意識を捨てて死んで)見よ・・の例えなのです。

確かに、禅寺(僧堂)の団体修行の場では、集中力を増し三昧境に入って、自我(思考・妄想)の接続を断捨する接心(坐禅)があります。

しかし、私は、皆さんにお勧めしません。

そんな荒修行、苦行の参禅で悟りを開いた人を、古今、見聞しないからです。

禅寺の跡継ぎを養成するために、3年か5年か、僧堂へ強制的(集団、促成栽培)におくりこんで、坊さんの資格を取らせる・・こんな鍛練法で、悟れないばかりか、悟りの心境までカンペ、コピペで教え込み、印可(悟りの卒業証書)を与える。これでは、純禅が滅びるのも無理ありません。

今時は、座布団の上で、死ぬようなつもりの集中力で・・と言っても訳がわかりません。

そこで・・私は釣り好きです。釣りで一番に釣果をあげた人を竿頭(さおがしら)と呼びますが、その竿頭(釣り名人)の、一歩先を歩む超名人とは、いったい、どんな人を道うか・・それが公案です。

 看(み)よや 看よ       どうだ・・見えるかナ

古岸 何人(なにびと)か       はるか岸辺で釣り竿をとる人がいるぞ 

釣り竿を把(と)れり         雲は青空にゆうゆう・・

雲 冉冉(ぜんぜん)たり       水はその空に映えて たゆとう

水 漫漫(まんまん)たり

名月蘆花 君自(みずか)ら看よ     ナント・・よく見てご覧。

                    釣糸も釣針も無い、エサさえもない

                    釣(竿だけの)老人だったのか

                   碧巌録 六十二則 雲門形山秘在 頌(じゅ)意訳

 

【竿頭進歩】・・独り一人、坐禅や生活行動の中で、自分にチャント備わっている自性(無・空・悟・禅)とは何か・・を閃く(ヒラメク)ように体覚せよ・・の意。

 

悩み、禅に期待して・・フラフラと禅を訪ねて日本に来る外国の方へ

尋ねるまでもなく、英訳発行の、鈴木大拙著「Living by ZEN」禅による生活・・を読んでください。

独りポッチの坐禅と、働き生活する、そのTPOでしか純禅を得る方法・手段はありません。禅は昔、仏教(僧)寺院で揺籃されましたが・・宗教ではありません。独り一人にあるZENを、それぞれの暮らしの場で、独りポッチの坐禅をして自得してください。習学、教導に「禅」はアリマセン。

はてなブログ 禅のパスポートで、無門関四十六則、素玄居士提唱を紹介しています。