◆元服の書 (看脚下)・・下を向いて歩こう!

元服の書 NO46  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

上を向いて歩こう」・・の歌は ともかくも、今こそ人生=人の生活は蹴躓(けつまづ)かぬように、シッカリと下を向いて歩く事だ・・と思います

1961年、世界的に「スキヤキ」と題してヒットした、坂本九さんの作詞 永六輔・作曲 中村八大「上を向いて歩こう」は、独りポッチの夜・・涙がこぼれないように、泣きながら(上を向いて)歩く名曲です。

私は、この歌が大好きですが・・たったの3分間で良い。イスの坐禅をして数息や公案を拈弄する・・何の効用効果も求めない(認めない)役立たずの「独りポッチ坐禅」を提唱してきました。

禅語録(碧巌録・無門関)の意訳を志す内に、千年昔の禅者達は、政治や戦争など社会の利権騒動に関りを持つことを嫌い、独り山奥に禅庵を結んで暮らし・・去る者は追わず、我が道を行く達磨無功徳=「純禅」=「禅ニヨル生活」があることを確信したからです。

現代、コロナ騒ぎを機として、テレ・ワークや、スマホ社会が主流となりましょう。いわば総ての人が登録され、統制・管理された政治経済、教育により、国家の仕組み(体制)に揺籃されるのです。逆に、街中であつても、独りポッチが容認される時代が到来した・・ともいえる訳です。

この大変革の時、いたずらに、涙がこぼれない様に、上を向いて嘆いていても埒(ラチ)があきません。下手をすれば、蹴躓(けつまづ)いて怪我をするだけです。利権に右往左往する政治や企業、御用教育者・評論家やマスコミに惑わされることがないよう・・蹴躓かないよう用心して・・シッカリ下を向いて歩かなければなりません。禅語「照顧脚下」常に自分の足元を確かめる・・「看脚下」独り、大地に立脚して自分の生活の歩みを続ける・・ことが大事でしょう。

悟り(見性)とは何ですか? 

僧堂の出入り口に吊るしてある・・まるで将棋盤か、碁盤ほどの大きさと厚み(10CM位)のある木板の真ん中を、木槌で叩く合図だけで、お互いの会話など無駄口の一切ない禅の修行生活があります。

その修行僧の寝食の決まり事や暮らしぶりを見て、まるで刑務所の囚人生活みたいだ・・といった人がいました。でも、刑務所との根本的な違いは、禅寺の僧堂(専門道場)は、自主的(個人的)な求道の修行に集まる団体生活の場であることです。

(余談ですが、この木版には、4文字4行の詩・・生死事大 無常迅速 光陰如矢 時不待人・・と書かれていて、その木版の真ん中が、日ごと夜ごとに木槌で叩かれて穴が開きそうになっているのを昔、見たことがあります。これは叩き続けて数十、数百年も経過して、近い内にスッポリ抜けた穴があくのだ・・と云われて、禅を修行する人たちの時間感覚に、ひどく敬意を覚えました)

しかし、現代は、わずか数年の修行をもって、禅寺の跡継ぎ資格を取る人ばかりになりました。叢林(専門道場)が、自動車学校のようになってしまったのです。

厳しい禅修行が、いわば接ぎ木、温室栽培の養成所に成り下がってしまいました。

・・その悟りの「答え?」とやらの「虎の巻」いわゆるカンニングペーパーが、秘かに伝承されているとも言われます

「悟り」の為の坐禅とか、坐禅することが悟りソノモノ・・とか、まるで病気と薬の後先、効能を云うように、禅と坐禅を解説する・・観光拝観禅の時代です。こんな組織的修行の中に、純禅(悟り)があろうはずがありません。

他に比較、評価の基準を求めない、自分だけの・・独りイス坐禅をお奨めします。たったの3分間の、習慣化です。この寂寥の坐禅だけが、安心(アンジン)大覚への道程です。

誰にも言わず月謝は要りません。参考にするのは、この奉魯愚だけ。これも頼りにせず忘れてください。

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心、禅の話

ココニ、求道者の悟り(見性)が、本物?・・かどうか、根掘り葉掘り、師家の点検する様子が描かれている「無字の歌」を全文 紹介しておきます。解読不能でもいいですから、昔の師家・禅者のド迫力に接してみられるとよいでしょう

「無字」の歌  今北洪川鈴木大拙 続禅選集 (株)春秋社刊

箇事 見性開悟の一大事 子細にすべし、ざっとやるまい 踏みすべるぞよ。

法理妙義も会得をせずに、世知にまかせて推察 見解、

老婆(にすい・・鈍感な師家)知識の涎を舐り、これで了悟と重荷をおろし、

無量劫来、生死の種子を、爰ぞ家山(本具の仏心)と真実とめりゃ、

高慢 邪見は それから起こる、恐ろしいぞや 最初の一歩。

 

真箇(まっとうな)修行の学者たち、いっそ やるなら本当に、

台座毫光ぶちぬくほどに、大悟徹底たのみます。

生鉄のうち、炉鞴の数を、千度万度の其上に、

「無字」の調べ(無門関第一則)でよく磨ぎすまし、日用見解 相応に、

実地を踏んで活脱に、見ても玉散る吹毛剣、言詮難透すらすら切れる。

末頼母敷ご修行ぞ。

 

まづ その「無字」の一字関、古人先徳も讃嘆す。

そも趙州は十八歳に破家散宅を会してのち、八十歳まで行脚して、

鍛えに煉ふ手もとから、只「無」と唱え出された、甚深微妙の一言ぞ。

 

死句を知る人多けれど、活句を会する人ぞなき、不伝の妙は活句にござる。

鋳型を知るは みな死句じゃ。いがたを知りて まぎらかす、

人は抜舌犁句(ばつぜつりく)の罪おかし、今に果報が見るうちぞ。

嫡てき相承の妙訣は、容易な看たてでゆきませぬ。

「無字」の透過が一番大事。邪正のちまた分け石ぞ。ここは悪手の宗師に還えす。

 

「無字」を見たなら証拠を見せよ。生死脱得の一句を言え。

僧 佛性を問わざる以前、趙州「無字」を答えぬさきに、おのが見處は如何ぞや。

死んで荼毘した後も見よ。又 頼みます、その無字をちょっとつまんで見せ玉へ。

「無字」の姿も見にゃならん。「無字」の根本根源 見せよ。

「無字」を脱酒(たっしゃ)に使ってみやれ。手軽う自由に使ってみやれ。

「無字」を微細に分けてもみやれ。

又 面白き拶処がござる。「無」と云わずに、何と言う。

無門和尚の二十字も、歴れき分明 読み玉へ。

五祖の偈 初二はやや浅し、三四は深かし、ここでまた、中與禅師の臓腑(ぞうふ)を徹骨徹髄 見て取れよ。

また 有るときは「有」と答ふ。これも大事ぞ、きょろつくな。

業識性の挨拶も、粘着縛着(かかり かっぽ)のないように、知而犯(ちにほん)の答話までも、徹底つくしたそののちに「無字」業識の分かちを見せよ。

遠き隔だても見にゃならん。まだ そのうえに四通りを言い分けて見よ。

これなどは、よほど向上の調らべじゃほどに、易すうは透(い)けぬ胸腹病ぞ。

これら逐一 透過せよ。

 

とかく定裏(坐禅している時と坐禅していない時)の工夫が大事。

定より慧をば選び出し「無字」の真の境涯を我が物にして見せ給え。

「無字」業識の語もすんだ、その のちのちに煉(ね)りたたて「無字」の真の境界の語も十成に置いて見よ。「無字」から業識・「有」字・知犯(ちぼん)、この四通りの真意をも、後語に目出度く置き給へ。

「無字」の調べに枝葉は多い。そのあらましを書きしるす。

まづ これつらの調べがすめば「無字」を見たとも些子(すこし)は云えよ。

慎むべきは最初の一歩、恐るべきは容易の透過。

かかりかっぽの有るうちは「無字」が済んだと決して言うな。

難透 難解(なんげ)過ぎて後、なお重々の嶮処がござる。

残ることなく 皆 透過せよ。これらを「無字」の殿後(しんがり)と名付く。

 

身をば碁石に血の涙。兎門三級の嶮難を苦辛、辛苦で透過した。

焦尾の魚は竜と化す、げにこの事は並々の、人の透過はおぼつかな。

たやすく証明する師家は、手元もさぞかし思ひやる。

末代 澆季(ぎょうき)の世につれて、看板だましもあるものよ。

是が一番 行脚の眼(まなこ)、多衆閙熱(にょうねつ)にきょろつくな。

紫衣や黄衣にだまされな。

真の丈夫の気概を立てて 枯淡、澹泊、孤危、険嶮、古人行脚の模様を守り、油断めさるな諸大徳。仏祖の恩も、師親の恩も一時に報ふ時節が来るぞ。

面白いぞや 同学同士。言わぬが秘密、語(と)かぬが妙道。

以上。

 

◆はたして・・暁の明星を看て大覚された釈尊や、古の禅者たちが梅の香りで大悟したり、掃除中の箒の小石が竹に当って悟りを開いたりした・・天地同根が、コンナ禅室の老師、師家とのやり取りにまで成り下がった修行のあり方に疑問符?を呈します。

ただしハッキリ注意します。日頃・・坐禅をしない者が、ZENを云々できません。10年~20年・・多少、坐禅して何かを得たと自惚れる禅境は、野狐禅ソノモノです。化かされてはなりません。

独りポッチの役立たずな3分間イス禅をしてください。

有(会)難とうございました。