元服の書㉓ 親鸞さんはどんな方ですか?

元服の書㉓ 

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:一言で云えば、オノレ・・独りの為に、弥陀の本願はあり!と云われた方です・・

先にブログで述べた一休さんもそうですが、今回の親鸞さんや禅の達磨さん、釈尊など、どんな人物像も、時代背景を抜きにして、現代感覚で判断、批評はしてはならないと考えています。

当時、それぞれの文化や社会制度は、現代に比べれば、ひどく、残酷なものでした。ただし、科学や文化全般で言えば、世界史一つとっても、今の小学生以下の知識、教養であっても、自分とは何か・・無常な社会に生きるのはどうしたらよいか、死ぬことはどうゆうことか・・自分を見つめ考えることや、先達の教えを求道する姿は、遙かに優れていたと思います。

どんなにAIやスマホで検索し、有り余る情報社会の只中にあっても、死や争いや利権、欲望、自分本位の行動の本質は、かえって悪化していると思います。

人生四・五十年の昔の人は、寿命百年の現代と比較して、濃密で自由な生き様でありました。

寿命が倍に伸びたのなら、熟成の年月も倍になるのが、考えることのできる人間でありましょう。

若者に「ココロクバリ」を漢字で書いてください・・といったら半分の人が「?」でした。字は「心配」と書きます。他人をシンパイすること・・すなわちココロクバリ出来る人が、それだけ減少したことになります。

それでは「シン」の字体は、いくつあるでしょう。

私は65歳を越して、仕事の傍ら・・はじめて、千年ぐらい前の、中国の禅者の語録(日本の禅寺で提唱されている)無門関や碧巌録の意訳を試みました。

若い時から、鈴木大拙先生(全集)や、師家の翻訳、解説など、読んではいても、生の漢文を読み下すのは大変です。戦前までの寺僧、先達があればこそ、また翻訳、語学者、辞書あればこそ、どうにか意訳できるようになってきました。

(でも、今でも、一文字の中に、どれほどの深い意味が隠されているのか・・?という想いや、形象文字の不思議さに取りつかれて、一晩を明かす・・年寄りに体の毒ですが、時にそんな日があります)

PCは【0と1】で演算し、人は文字、言語で思考すると云われます。

さてシンの字は【新・真・深・信・心】位か・・せいぜい【臣・神・身・浸・呻】の10文字の当用漢字を知っている程度で、あとはPCの検索まかせ、文章事例まかせのKYで、何の文化、ホントの文明の進化でしょうか?自分に利権のあることにのみ考えて行動する・・自分勝手な社会=集団が、繁栄した例はないと思います。

「シン」の字体は角川「新字源」によれば135文字。

「心」のついた身心や心痛など122熟語ありました。

寺小屋で学んだ読み書きソロバンの実用教育の方が、はるかに心豊かな社会であつたというのは、私一人の思いでしょうか。

昔の作家は、信奉する作家の文体を、そっくり筆写して作法を学んだといいます。刀工や宮大工、職人や板前は現代でも、その風、業(わざ)を身をもつて学びます。

禅も、教義学習からではなく、仕事や勉強の合間の・・独りポッチの坐禅の実行から始まります。

起床の時、就寝の時、昼休み・・など、タッタの3分間・・イス禅、寝禅、トイレ禅ETC・・チナミニ、この奉魯愚を看(見)終わったら、独りイス禅、やって見てください。ソンナこと、すぐできると思ったら大間違い。役立たずの数息観イス禅で3分・・

まともにできた人をナカナカ見かけません。

独りです。仲間を作らず「全世界で唯、アナタ独り」の坐禅をしてください。

(独り五合庵で雨音を友として暮らされた・・禅者、大愚良寛さんの記事は、もっと私の中で発酵・熟成(吟醸)してから記載する予定です)

愚禿親鸞(ぐとく しんらん 1173~1263)は、鎌倉時代、前期~中期・・方丈記に書かれている養和(1181年)の飢饉・・洛中の死者4万人以上の頃、9歳で得度され、法然の専修念仏に入門された・・後に「教行信証」1247年を完成された浄土真宗の開祖と云われている方です。

一説に、法然上人の浄土往生を全国に布教する、他力本願の念仏道場を広めるため、独り、禿げ頭の半僧半俗(妻帯・4男3女)の人として、開宗なさる意思はなかったと伝記にあります。私は、この「弥陀の本願は、この親鸞一人の為にある」との確信に満ちた言葉。そして地獄のような飢饉、疫病、災害、戦乱の世相に、自我を捨て果てて浄土を欣求する姿に畏敬の念を覚えます。さらに仏教学者であり、禅者であつた鈴木大拙博士の著作に・・念仏で「禅による生活」を体現した「妙好人」がおられるのを知って、自力と云い、他力と云うも、突き詰めれば「本願」=禅・「悟り」は、何ほどの区別が出来ないものだと思えるようになりました。

ちょうど親鸞上人にオーバーラップして、遊行聖(ゆぎょうひじり)と呼ばれた、踊り念佛の一遍上人(1239~1289)の出現で、一層に確信の度は高まりました。

その法語に、自力他力は初門のことなり。唯一念仏なるを他力とは言うなり「生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り。さすれば共に果(はつ)るなき故なり」とあります。 

また34歳の頃の法語に「地獄のおそれや極楽を願う心も捨て、諸宗の悟りを捨て、一切のこと捨てて申す念仏。愚老の申すことも捨てて山河大地ことごとく念仏ならぬものなし」とあります。

親鸞と同様、開宗(教祖)の意思なく、狂乱の踊り念仏を見世物にして、独り・・捨て聖として・・満50歳、栄養失調で亡くなられたと云います。

お断りしておきますが、私は、浄土宗や浄土真宗の教団や禅寺僧侶による組織を仲介にした信仰は持ち合わせておりません。

親鸞その人を信じて「南無阿弥陀仏」と祈る・・「禅(による生活)者」の一人です。元服の書㉒末尾に書きましたが・・この誰も窺いしれない寂寥の「独りポッチ」の心情を、貴方も自分で探索してもらいたい・・と願っています。

有(会)難とうございました。

一休さんとは、どんな方ですか?【元服の書㉒】

元服の書㉒ 

一休さんとは、どんな方ですか?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:おそらく・・キライな(禅の臭い)を消した方でしょう!

正月は、冥途の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし・・髑髏(どくろ)杖を手に、鈴を鳴らして、こんな文句を触れ歩いた・・と言われる一休さん

私は、どうも「・・?」です。

たぶん、後世に脚色されての伝聞となったのでしょう。

禅者/詩人 一休宗純(1392~1481)を語るとすれば・・将軍、足利義政の圧政の中、治療法のない伝染病や、テロ、クーデター(応仁の乱など)地震台風による災害・・中世大動乱の時代、悲惨な社会体制の中で真に「純禅による生活」をなした方であると思います。

禅宗、京都大徳寺の最高の地位にありながら、政財界との利権や癒着、権力にオモネル寺僧を嫌い、庶民そのままの生活で、酒や風俗店で遊びました。齢七十七を超え、住吉薬師堂で琵琶を奏でる盲目の森女との出会いがあり、その後、十一年間、幸せな同棲生活を送られました。また、愚禿(ぐとく・禿げ頭の妻帯者)親鸞の生きざまを褒めて信者ともなった・・時代の風潮に迎合しない(風狂の)禅者であり、詩人(文学者)でした。

一休さんにとって、年始(正月)が目出度いとか、一年の計が元旦にありとか・・そんな社会的評論が頭の片隅にある訳がなく、森女の膝枕でうたた寝しながら「死にとうはないなぁ・・」とボソボソ語りかけたと思うのです。

例えば、日頃の優しい配慮ぶりは、雀を飼っていて亡くなると、雀(じゃく)を釈(しゃく・釈尊)と言い換え、その涅槃にあやかって「尊林」という詩をつくって弔らった事・・その後、別の「葉室」という雅号の雀を飼う・・如き・・天地同根の一休さんで明らかです。

また号に「瞎驢(かつろ)」とありますが、これは禅・臨済宗開祖 臨済義玄と弟子、三聖との「我が正法眼蔵、この瞎驢辺(愚かなロバ)に滅却せんとは・・」の、正伝する弟子なしに死せんとする臨済の一喝問答に由来しています。

臨済禅は、この三聖で終わりとなるのか・・との遺言です。従来の文章解釈では、禅特有の貶(けな)して誉めている文句だ・・とするのですが、一休さんは、真っ正直に、禅は臨済で途絶えた・・と解釈しています。

私は、かねてから「禅」は、剣道の免許皆伝のように、師弟継承できるものではない・・役立たずの独りポッチの坐禅で、独り一人が自覚するのが純禅である・・と云い続けてきました。

釈尊以来、禅は、独り一人にあり・・「臨済の正伝は途絶えたのではない。もともと伝えるとか、伝えないとかいえるものじゃない。はじめから1点も伝えるものなどない」・・という説に賛成です。この羅漢と真珠の、年頭挨拶(禅者の至言)=臨済と鳳林(ほうりん・臨済碌)の偈のように、独り(イマ・ココ)の覚悟が、その人の生涯、あまねく禅による生活に及ばないと、自笑一声に成らないのです。

一休さんは、遺偈(いげ)で「須弥南畔(しゅみなんばん・全世界で)誰か我が禅を會(え)す・・」と書いています。

この誰も窺いしれない、厳しい「独りポッチ」の生活心情を、貴方も自分で探索してもらいたい・・と願っています。

浄土真宗親鸞二百回忌 報恩講蓮如上人から親鸞画像をもらい受け「襟まきのあたたかそうな黒坊主、こやつの法は天下一品」と画賛しています。また、国柄や身分や宗派など(一切)関係なく(ただ独りのココロによる)覚悟が大事と述べています。有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み。雨降らば降れ、風吹かば吹け・・も、禅者の一語としては覚悟が甘く、悟りの証明である印可状を焼き捨てた一休さん。ヤルことナスこと、出家の規範をはずれ(かといって、人間としての真実から外れることなく)自由、大道を歩いた人でした。

おそらく現代社会にタイムスリップした一休さんを想えば・・TVやスマホやAIなど、電磁的映像的情報に関心を示すことはなく(ラジオでニュース位は聞く程度で)マスコミや利権を嫌い、どこかシナビた地で、森女や雀やコオロギの♪🎶♫音楽を膝枕に聞きながら、人々に親しまれて暮らされることでしょう。

自分の米味噌に換えた揮毫が、現代、古美術として何百何千万に売り買いされ、住居をゾロゾロ拝観料を払って覗きまわる観光客をナント評価されるでしょうか・・聞きたいものです。

(参照)*禅僧の遺偈 古田紹欽 春秋社(1987年) 

    *一休 狂雲集の世界 柳田聖山 人文書院(1980年)

    *臨済碌講話 釈 宗活 光融館(昭和16年

賀状をやめて年詞は禅者の至言をご紹介しています

馬齢を重ねるにつれ、日々、同様のことなきを識ります。

体調一つとっても、寒月下 梅花のほころびを見ても、同じということは、何一つありません。

会い難く・・有り難きことです。

賀状を廃止し,代えて禅語(禅者の至言)を紹介しています。

  孤輪独照 こりん ひとりてらして 

    江山静 こうざん しずかなり 

      自笑一聲 みずからわろう いっせい

        天地驚 てんち おどろく 

        臨済義玄(?~867禅・臨済宗開祖)行録 鳳林に往く  

 

     くれぐれもご自愛専一に祈りあげます

                 2019年 正月      

                  加納 泰次                

                 090-9871-7006

                                               Mail  taijin@jcom.zaq.ne.jp

         近況・・おりあれば・・ 奉魯愚  ご覧ください

         はてなブログ 禅者の一語 「碧巌録」禅語録意訳

                禅のパスポート「無門関」禅語録意訳

                羅漢と真珠 禅のこころ 禅の話・・雑想 

元服の書㉑ 役立たずの(造作しない)独りポッチ坐禅・・

坐禅は・・寺僧の教導を受けないと出来ない修行ですか?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:違います。どうぞ「独りポッチ」で、イスなり寝起きの前後なり、3分間でもOK・・大事なのは・・肩の力を抜いて、覚悟して始めることです。

坐禅することを、まるで習い事や学校の教育実習のように思ってはなりません。

同じ青春の悩みごとを持つ友達と一緒に・・とか、瞑想やヨガに関心がある仲間と一緒にとか、自分一人では心もとないのでとか、お金を払えば、辞める時も勝手次第だから・・とか。

そんな配慮や思惑(計らい・造作)は「坐禅する」ことの邪魔にこそなれ、一切無用です。

釈尊以来・・禅は、生まれつき独り一人に備わっている「尊うとさ」を、哲学や論理ではなく「ココロから発明、発見する生活行動」です。これを「悟り」といい「見性」といいます。

そのためには、誰彼から教導されるものではなく、だだ、自分だけ(の独り)に徹して坐禅して、自分が自分で納得(自覚)するしか方法がありません。

坐禅の仕方が解からない・・坐禅中の思考の変化がわからない・・悟りの境地が知りたい・・どうぞ自分で大地に立っているように・・自然と呼吸しているように・・何もかも独りで工夫、自習してなさることです。甘えなさるな!

貴方はイスに座ったことがありますか⇒あります⇒それなら椅子に坐ってどうぞ。

質問⇒手足、姿勢はどうすればいいのですか⇒肩の力を抜いて、リラックスして・・ただ、背筋はのばして、アタマのテッペンから吊り下げられているように・・そして眼は半眼(薄眼)にして2メートル下位を見ます。理由は眠らないように・・です。手足は自然にどうぞ(熟睡している時の呼吸や手足はどうなっていますか・)

質問⇒1日何分ぐらい何回ぐらい坐禅すればいいのでしょうか⇒1回3分ぐらい。1呼吸 約10秒として【吸う息は短く、吐く息は長く・・ヒト~ツ・フタ~ツ・・ム~ツと数えます】6数×3回=18回ぐらいで3分間です。2回でも3回でも・・寝床禅では、すぐに眠てしまうことがあつても、それはかまいません。

質問⇒坐禅の間、何を考えたらいいのですか、それとも無念無想ですか⇒呼吸数を数えなさい(数息観)・・まず寝起きの時など、1日1回でも顔を洗う如く・・3分間、やって見ることです。禅語録の公案はどうか・・とか、余計な考え事や無念無想になりたいなど気安く言うべきではありません。一呼吸10秒程度。

ただ呼吸数を数えて(数息)計18回で約3分です。

質問⇒注意するべき点を教えてください⇒他人や本やPCに頼らないことです。何の役にも立たない(損得のない)坐禅を覚悟して・・たかが3分ぐらい坐禅する事が簡単だと思ったら大間違いです。

2~30年間、独りポッチ3分間ポッチのイス禅を毎日心がけて、どうにか少しまともにやれたかな・・が実感です。

 

釈尊(ゴーダマ シッダルダ)は、紀元前486年4月8日、釈迦族の王子として生まれ、妻(ヤシュダラ姫)子(アゴラ)ある身でしたが、無常を観じられ29歳出家、虎やコブラにいる深山に独り断食(一日胡麻を少し食べられて)6年間の坐禅行をされました(苦行の釈迦)。ただし正覚は得られず、やせ衰えられて山を下りられました。大河のほとり菩提樹下、スジャータという牛飼いの娘の施し(牛乳)をいただいて蘇生されたのです。

「ナルホド、求道(坐禅)は、身心のコンデションを整えてこその坐禅でなくてはならない・・」と、執着(欣求)しない禅定(生活)を心掛けられたのです。

そして供養を受けながら35歳・・暁の明星を看て大覚(成道)されたのです。以来、禅はインドから中国へ・・そして日本へ・・寺僧の揺籃をうけながらも、次の世代の「独りひとり」に大覚されてきたのです。「悟り」が代々、師弟に伝法された訳ではアリマセン。途絶えたことも多々ありましたし、寺僧によらず、薪売りや渡し守など、庶民の中に道人として見性した人が、少なからずおられます。

現代社会のように働きながら、自由に坐禅できる環境ではありません。宗教寺院での集団生活や念仏禅など僧堂修行は厳しく行われました。でも、師家の鞭撻があつても、悟りのタネは独り一人のTPOで自然(不意)に発芽するのです。そして、その種による独り一人の発育(禅による生活、実践長養)があってこそ、真夏の日陰を施せる大樹となるのです。繰り返します。禅は欣求(宗教)修行して見性できることではありません。

禅語録や指導書、私の意見などはホドホド、参考になさるだけにして、どうぞ体調を整え、思惑(造作)を忘れて「独りイス禅」をなさってください。一番良くないのは、集中しなければならないとか、足や体が痛い・・そんな形にこだわる坐禅(瞑想)です。

宮沢賢治の雨にも負けず・・ではありませんが・・みんなに木偶の棒(でくのぼう)と呼ばれる・・出苦の忘の坐禅をしてください。

有(会)難とうございました(12月22日/24日 加筆改記)

 

 

至道の禅語⑻ 独坐大雄峰・・坐禅の姿は、まるで富士山のようだ・・!?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:何か特別に大事なこととは・・私は大雄と云う名の深山に 独り坐している老人だ・・の意。

 碧巌録 第二十六則 百丈独坐大雄峯(ひゃくじょう どくざ だいゆうほう)

百丈山(別名 大雄山)は中国江西省洪州にあり人里離れた、そう高くもない山である(昔は虎が出没した山奥だった)

それを「大雄峯」と決めつけたおかげで、日本では富士山のような有名な山になってしまった。

【本則】奇抜で面白い話を紹介する。

百丈(大雄)山の禅院に、求道者が尋ねてきた。

「何か特別でめずらしいこと・・賞賛に値することはどんなことでしょうか?」

百丈懐海「独坐大雄峯・・別段、是と云って言うべきことは何もないな。ただ、老人が独り(虎が出るような)大雄という山奥に坐っているだけさ」

それを聞いた求道者、恭しく一礼した。

百丈、すかさず竹箆(しっぺい)で、ピシリと求道者を打った。

【頌】馬祖道一の弟子、百丈懐海は稀代の名馬である。

ちょうど、雷光一閃の瞬間、天地が逆さまになるような、すぐれた働きをする・・こんな非凡な禅者の前に来て「如何なるか是れ奇特事」・・とは・・

あたかも猛虎の髭をなでるような出来事だ。

ピシャリと打たれて済んだのも果報の内だよ(打たれるには意味がある)

この求道者、虎に遭遇しないで、無事、道に迷わず深山を下りられたかどうか・・わからない。 

 

この則には【垂示】が欠落しているので、百丈を取り巻く環境を書いておく。

ここに登場する百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい720~814)が生まれたのは、中国史で誰でも知っている楊貴妃が719年に生まれた1年後(玄宗皇帝35才)の時代である。

蜀のげんえんの娘が楊貴妃となったのは745年。玄宗皇帝61歳。楊貴妃27歳・・百丈懐海26歳・・当時・・安禄山の謀反があり、ひどく風紀が乱れ頽廃の時代にあって、寺院や僧たちも相当に堕落していたようだ。

禅林(禅寺の修行する組織)が、ひどく怠惰で規律のない集団だったので、百丈清規(しんぎ=禅の宗団組織、生活の規則)を定めたのもうなずける。

五燈會元の記述に、老齢の百丈が、率先して働く(作務する)ので、弟子たちが密かに作具を隠したところ、自分の不徳の所為だ・・と食を絶った・・との逸話がある。

その時の有名な言葉が「一日作(な)さざれば、一日食せず」・・である。

また無門関では、第二則「百丈野狐(ひゃくじょう やこ)」・・口ばかりの悟った風の師家(指導者)を「野狐禅(やこぜん)」という・・有名な公案がある。

禅に関心のある方は、はてなブログ「禅のパスポート」=「無門関」素玄居士提唱・・絶版意訳をご参考ください。

 

彼の法系は、大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一・・→百丈懐海であり、弟子に黄檗希運黄檗宗)→臨済義玄臨済宗)。別に・・百丈→潙山霊祐→仰山慧寂(潙仰宗)の、禅、三宗の基礎を築づき、すぐれた禅者たちを打出した宗師である。

もし、玄宗皇帝の世に、百丈がいなければ、はたして日本に伝播した禅は、どうなっていたことか・・解からない。

【附記】世の中に出回る勇壮な書・一行書「独坐大雄峯」のイメージと、萎(しな)びた山間に独り、坐っている爺さん・・どうも一致しづらい。

現代社会は情報社会と言う・・けれど、頭脳の何千万人分、図書館の何千館分の知識をパソコンで利用できようと、また、広大な宇宙の果て銀河世界や、逆に最小単位のミクロ、量子物理学を究めつつあると言っても・・金の亡者のような経営者がのさばり、ちょっとしたもめ事で人を殺める社会が現実・・今の人間です。

社会の為になる研究や開発、頭脳そのものの研究、自然科学の研究に情報の活用は大事ですが、人は・・ソクラテス以来、誰もが思い考えてきた・・「自分とは何か・・」「幸福・安心とは何か」の問いに、何とか答えを見つけたいとする無常観(寂寥心)と・・いわゆる・・求道(好奇)心をなくしてはなりません。

この問いにスマホやパソコンは真実・安心の境地とはほど遠い、資料提供だけをする存在です。

だからこそ、釈尊以前からインドの地にあった「空・無」を拠りどころにする浄慮・澄心の「禅」が、現代社会の心の免疫不全に役立つのです(無功徳の禅が、無功徳だからこそ解毒剤の役割をもっている・・と言えましょう)

そして、先達が歩いた足跡・・禅行録(公案)が、迷う人に連れ添って、禅境(地)を語ってくれています。

千年・二千年前であろうと、ひたすら内面に「自己とは何か」を問いかけることに、何の電磁的集積回路や文明文化とやらが必要でしょうか。

むしろ知的思考に頼り、スマホやパソコンの情報を解析のツールにする以上、バランスを失った理性は、般若(智慧)の本体から遠ざかります。

それは人間とは・・思考そのものを思考できない・・生まれてから学ぶ脳・知識の、自己優先の限界、欠陥があるからです。

思考は、分別分析分化・・これを言語に置き換えてもよい・・学習脳内作業だから、まるでパソコンに永久運動の機械設計を依頼するようなもの。

円周率を計算させるような働きになってしまいます。

釈尊以来「禅による生活」をなした禅者たちは、般若心経の、いわゆる「菩提娑婆訶(ボーディソワカ)」の境地を体現して今に至っています。

世の中で、最も奇特で大事な事・・とは、虎が出没する深い山奥で、むさくるしい爺さんではあるが・・まるで「般若の真ん中で、どっしりと坐っている自分(自我)・・これである」・・と断言する百丈。

どうやら地球を尻に敷いて「ドン」と坐りこむ禅者の傍らで、仔犬のように跳ね回るのは止めて、静かに大雄山から退散することとしよう。

*百丈(大雄)山 海抜千メートル、孟宗竹に覆われ山腹に黄檗の滝がある。景徳伝灯録 百丈伝「大雄山に住す、居所 巌巒(げんらん 立ち入り難い峯々)峻極の故に、之を百丈と号す」とある。この山麓の原野を開拓して、黄檗・潙山ら禅者たちの作務(労働)により僧堂、方丈が創建された(仏殿はない)のである。

さらに附記します。

禅語録の公案とは、悟りにいたる坐禅の問題集ではありません。

約千年前の、求道者たちの師弟の対話や行脚、問答、独悟の様子を単的にまとめた語録です。したがって「仏」の字を、ホトケとして釈尊釈迦牟尼世尊)・・とか、仏教(仏陀の教え)として、宗教的に判断、信心、祈念、欣求すると間違いになります。

たとえば「如何なるか 是れ佛」と問答にあれば、佛を「ZEN」に置き換えて読まれた方が誤解が少ないでしょう。

(いずれにせよ、言葉や文字に捉われて思考(指向)しても、禅・悟り・・はありません)

碧巌録にせよ無門関にせよ、語録(公案)は、求道者(禅者)の生涯をかけた「禅による生活」の行録(行いを記録)なのです。

たかだか3年5年、僧堂で集団修行したから、学習、参禅で理解できるしろものではありません。例え師家から印可(見性)証明をされて、大寺の住職におさまっていようと、宗教・哲学の講釈を重ねようと、それだけでは真の禅者と言えないのです。

アナタは・・独り(何の得にもならない)坐禅をされて、自悟自知(行禅悟道)しないと、百丈の大雄峰に「独坐」する・・そんな禅境(地)は、知りようもなく、ありえようもないのです。

 

 

至道の禅語⑺ 放下着(ほうげちゃく)

至道の禅語⑺ 

放下着(ほうげじゃく)とは・・?

 「断・捨・離」のことですか? 

             ・・違います

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

昔、この禅語を「下着を放って素っ裸で生きること」と解釈した人がいたそうですが、あながち、ひどく間違っているとは言えません。

*この禅語 出典は、禅語録「従容碌」五十七則に出ている公案です。

厳陽(げんよう)尊者、趙州に問う。

「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、如何(いかん)」

・・何ものも持ち込まない(禅境地)なら、どうでしょうか・・

趙州云く「放下着」

・・肩の荷を下ろしなさい・・

厳問う「一物不将来、この何をか放下せん」

・・無いのにおろしようがありませんが・・

趙州云く「恁麼(いんも)ならば、担取(たんしゅ)し去れ」

・・それなら(無いのに捨てようがないのを)担(かつ)いで行きなさい・・

 

いらないガラクタが部屋イッパイにあって、「断捨離」しなさいとアドバイスされて、きれいサッパリした・・けれど、また、しばらくしたら、ゴミ屋敷になってしまった。

中国の悪口に「飯袋子(はんたいす)・・食べるだけが能な、愚かなメシブクロめ」とあります。

これは、生きると云うことは、ゴミを出すこと・・人間、悪臭無限の宿業(カルマ)を言い表していますが、なんとか、そうしたゴミの山から抜け出したいと思う気持ちが「断捨離」になったのでしょう。

自分の執着心と行為の結果を反省して、ナントか断捨離したいという願望になった訳です(つまり・・執着心や願望を断捨離しない限り、再び、ココロがゴミ箱になり、次いで部屋がゴミだらけになる繰り返しになりましょう)

自分の意識や心掛けを戒める「断捨離」と、自我意識(執着心)そのものを坐禅(禅)によって解き放ってしまえ・・と言うのとは、根本から違います。

禅語「放下」は(着、語助で意味なし)・・放ち、肩の荷を降ろすこと・・の意です。

何もないココロから、何を捨てるのですか?・・の厳陽の問いに趙州は、にべもなく「それじゃ(その思い・・妄想を)担いで行きなさい」と突き放しました。

厳陽尊者が、趙州の意を解して、煩悩(思い)を放下できたかどうか・・この語録・公案には書いてありません。

執着(欲望)心を放下することは、坐禅をもってしても、そう簡単にできることではありません。

人間の「思い(妄想)はアタマの分泌物」として、そう簡単に、アタマ手放しは出来ません。この言葉は、曹洞宗の師家の方が書かれた本にありました。

【放下着】人生 ハダカ(心・・浄裸裸)で生きるべし・・の意。

どうやら、下着まで脱ぎ捨てよ・・素っ裸(のこころ)で生きよ・・と解しても、さほどに違いがありません。

人間は言葉や文字で自分の心を飾り立て、言い訳し、正当化し、ナカナカ正直にはなれません。

この覚悟の生き方は、どうしても、(3分間)独りポッチのイス「坐禅」でなければ、得られる禅境ではないのです。

 

 

元服の書㉑ 円覚寺續燈庵 故・須原耕雲(弓和尚)のこと・・

元服の書㉑  

弓和尚こと・・故/須原耕雲老師・・

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

 円覚寺の境内に、横須賀線 北鎌倉駅がある。

夏目漱石が釋 宗演老師に参禅して「門」という小説を書いた禅・臨済宗の本山である。

石段を上って山門を入ると、杉木立の大木が聳え立つ、本堂・舎利殿へ続く、緩やかな登りの坂道となる。

その左手に弓和尚の名で知られた我が師、故・須原耕雲老師の焔魔堂(弓道場)がある。私が、大学入学時、縁あって寄宿した続燈庵は、ちょうど舎利殿(専門道場)の裏手にあたる山頂近いところだ。

今から60年位前の頃・・まだまだ深山幽谷の趣きがあった。鳥の巣が参道の木々にあり、ウズラが子ウズラを列にして小走りしていた風景を思い出す。

今時の紅葉や桜狩りの、押すな押すなの観光化した禅寺と訳が違う禅寺だった。

たまたま、手紙類を整理中、平成11(1999)年、会社の仕事(57才時)の帰りか、立ち寄った際の、老師からの手紙があり、その中に同封されていた「巻き藁(まきわら)」という弓道場生宛ての会報(原稿用紙に手書きしてコピーした)が二篇見つかったので、ここに紹介いたします。

巻藁 四十七 平11、3,3 【梅に題す】

円覚寺境内の梅が真白に香り見事だ。

弓道場(焔魔堂)矢道の梅は花がつかぬ、心配だ。

私は梅がすきで、續燈庵本堂の床の間には、五岳(ごがく)上人の梅に題す詩を、朝比奈(宗源)老師に御願いした軸が一年中掛けられている。

 風波或イハ怖(オソ)ル袈裟ニ及ブコトヲ  

 慚愧(ザンキ)ス 此ノ身 イマダ家ヲ出デズ  

 天地百年 総ベテ是レ 夢         

 笑ウテ看ル 寒月ノ梅花ニ上ルコトヲ    

朝比奈老師は「結句は訳さぬがよい。これはあくまで白梅でなくてはならぬ」と言われた。

二,三輪の白梅のもと、仰ぐと上弦の月が冴えている。

――丁度 ひきしぼった弓が、胸の中筋から分かれた「瞬間」・・

「矢ヲ看ヨ」の心境だ。肯心(コウシン)自カラ許ス 心だ

私は毎日夕刻、本堂の真中で、ゆっくり水平足踏み一分と三分の澄心(ちょうしん・ココロをスマスの意・行禅)のあと、この梅を吟じ、反省と勇気に結びつけております。

「ありがとうございました。おかげさまです」と。

     風波或怖及袈裟   世間の苦辛 坊主に及ぶ勿かれと

     慚愧此身未出家   コレじゃ まだまだ出家じゃないな

     天地百年総是夢   せいぜい百年 遊戯をせんとや生まれけん

     笑看寒月上梅花   白梅 雪となって散る・・呵々大笑(加納泰次 意訳)

 

巻藁七十二 平11、12,21【ヘソ呼吸で締めます(完)】

   百歳も今日一日のつづきぞよ 

      この一日をおろそかにすな

生きると、息をするとは同儀といわれる。

ブッダの五出の調(ととの)えでも一番に「吐く息を長く堂々とせよ」と申され、吐く息を多くせよ、吸う息は長からん――大事な、大事な呼吸法です。ヘソは神闕(シンケツ)という急所のツボで、神ガ宿ル所。肛門は人が一番最後に息を引き取る所だといわれ、共に人の最重要の急所です。

ヘソで息を吸い、丹田(たんでん)に納め、肛門から吐き切る――この呼吸こそ「無事有事ノ如ク 有事無事の如シ」の平常心につながる呼吸です。

越し方は ひと夜の如く思われて 八十路(やそじ)にわたる 夢を見しかな

弓あるは楽し 弓あるは幸いなり。

武ハ舞ニ同ジ—―と言われます。ひと息ひと息、一矢一矢、一日一日、弓をいただいて、翁(オキナ)の舞を續けてゆきたい念願であります。

神舞閑全(シンブカンゼン)ナル粧(ヨソオイ)ハ老人ノ体用(タイユウ)ヨリ出ズ。

 

日頃、暮らしの中や、閻魔堂(道場)での耕雲老師の立ち居振る舞いは・・いかにも「弓和尚」と呼びかけたくなる・・鎌倉期の古武士の面影がひしひしと伝わる禅者でした

(老師とは師事する人の意です。「親しき先生」と言うべき、中国からの呼称であり、老いたる指導者の意ではありません)