元服の書㉘・・良寛さんは、どんな人ですか?

森山隆平著「行乞の詩人 良寛」を紹介します・・

中学・高校生と60才~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

「石仏の森山」といわれた・・故・森山隆平 著『行乞の詩人良寛』(株)考古堂1992年出版・・

漢詩訳文も)にチナミ、良寛さんを紹介してみます。

  世間の人のありようは        我見世間人

  どいつもこいつも同(おんな)じだ  個々例若斯

  とりとめもなくお喋りし       凡言取次出

  言葉と行為はちぐはぐだ       願行全参差 

  言行つねにそむくとき        当言行相背

  責を負うのはどなたかな       禍咎帰於誰

  あとの祭りと悔やんでも       是時仍切歯

  ああ遅かりき由良之助        咄嗟八刻遅

 

  世に売れっ子もいるもんだ    世有多事人

  タレント振りも堂に入り     自用逞聡明

  思いの儘に世をわたる      凡事無大小

  屋敷はオクション        随意皆改成

  ハイカラで           鼎列山海美

  食事はグルメ竝(なら)べたて  宅極当時栄

  前はカメラの放列だ       前門車馬溢

  人気絶頂のスターでも      遠近称声名

  わずか十年もちはせぬ      不過十箇年

  家は荒れはて草ぼうぼう     牆荒荊棘生

       

良寛さんの生涯(1758~1831)は、無一物の七十四年でした。

出雲崎の名主 橘屋の跡継ぎでありながら二十二才で出家。倉敷(玉島・圓通寺)で修行十年。大忍国仙和尚から「良(ヨ)きかな 愚の如く 道転(みち うたた)寛(ヒロシ)。謄々(とうとう)任運、誰か看るを得ん」・・その悟り(印可)の偈の語頭・語尾の良と寛から大愚良寛を名乗って故郷に戻ったのは三十九才。帰郷しても生家に帰らず、乞食坊主と罵られながら「禅による生活」・・清貧の修行を貫かれました。子供の頃から、元来、空想好きで手毬、オハジキが大好き。衣服は無頓着。交際は苦手で寡黙。物忘れも多くボウとして昼行燈と云われたりしました。名家の跡継ぎであり、若い頃は、弟の由之ともども道楽者の評判があり、プレイボーイぶりもチラつきました。

しかし真っ正直で、人を疑わなかった方でした。

五十才以降・・五合庵に腰をすえて暮らされるまでを「破庵仮住」の時期とします。その暮らしぶりは、外護者が増え、村の子供たちにも慕われて、傍らに良寛さんがいるだけで、ミンナ安心(アンジン)した心もちになったと云います。

独り・清貧に徹した禅者、円満な境地に至った詩がたくさん残っています。

  立身出世もままならぬ      生涯懶立身

  乞食沙門はゆくまま気まま    謄々任天真

  貧乏暮らしも板につき      嚢中三升米

  金も要らなきゃ名も入らぬ    炉辺一束薪

  まして悟りは縁もなく      誰問迷悟跡

  雨のそぼ降る草の舎に      何知名利塵

  ごろりてまくら         夜雨草庵裡

  こっくりこ(ゆめうつつ)    雙脚等閒伸 

 

「鉄鉢に明日の米あり夕涼み」無欲一切足 有求万事窮

人間、欲心さえなければ、何事も満足に暮らすことができることを詩文でうたいます。

「世の中に寝るほどの楽はなかりけり」・・と、江戸狂歌にあります。米三升と一束の薪があれば、それで満足とする悟境に至れないのが人情というものですが、良寛さんは、まるで柔道の空気投げのように態を無所得・無心に委ねてしまいます。

そうした良寛さんの草庵の暮らしを支えたのは、村々の農民であり、庄屋の主人たちでした。

彼らは、良寛の帰依者であり、よき理解者でもありました。

その手紙類を覗いてみると、おもしろいほど くっきりと日常生活が浮き彫りにされてきます。

味噌が塩辛いので、とりかえて下さい。甘い好物のお菓子、銘柄指定でのみ、お送りください。この薬は効果効用がありませんので、お返しいたします。インキン・タムシの貝殻に入った薬(貝の絵つき)なんとか都合してお送りください・・などなど。

泥棒に入られて・・の一句「ぬす人に とり残されし 窓の月」サバサバした素寒貧(スカンピン)の禅境地をしのばせる, まったく禅史上、類を見ない「独りポッチ」の行乞禅者でした。

  ハイ 今日は 

      雑炊の味噌一かさ

      下されたく候

   ハイ さようなら     良寛

何卒(なにとぞ)白雪羔(落雁様の菓子)

 少々、御惠たまわり度候。余の菓子は無用。  

   十一月五日 良寛    山田杜皐老

薬十帖あまり服用 仕候(つかまつりそうら)へ共

 何のしるしも無之間(これなくあいだ)

 余りは御返申候  七月十日 良寛

此(この)味噌 風味には難なく候(そうら)へ共、

 あまりにも しほ(塩)はやく候間、何卒おかへ

    被下度候(くだされたく そうろう)早々以上 

                       十二月二十二日 良寛  定珍老

いんきん たむし再発致候間 万能功一貝(ばんのうこう ひとかい)お恵度被下候

  (貝の絵)  七月九日 良寛  守静老

蕭条老朽身   明日をも知らぬ 老いの軀は 

 借此草庵送歳華  草の庵を仮の宿 

            命しみじみ送るかな

 春来如有命    花咲く春のめぐり来て 

            生きの命のまだあれば     

 鳴鈴一過夫子家  鈴を鳴らして君が家 

            訪ねゆく日を指おりつ

 

災難に遭う時節には、災難に逢うがよく候。 

   死ぬ時節には死ぬがよく候。

   是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

           山田杜皐(とこう)老あて 手紙(1828年12月 新潟県三条市地震 

   家屋全壊12000、死者1500人・・良寛71歳)

この災難の字を「天災、地震、戦争、難治の疫病、病気」など、良寛の生きていた当時の時代背景に合わせてみる必要があります。不意に、避けようもない不幸な出来事に遭遇して、死ぬのかナ・・と覚悟しないとならない時・・良寛は(自分は)・・何時も、ソンナ災難を逃れる方法は、これしかないと思っています・・と、身内を亡くされた知人に(慰めようもない)運命=業への覚悟を書かれました。

真っ正直な良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」・・と同義の想いであると解釈しています。

現代は・・周囲の思惑や詮索に取り囲まれて、窮屈に暮らす社会ですが、良寛さんは、貞心尼に看取られながら、やせ我慢や悟り臭さを抜けきって、死すべき時節にいたり往生されました。

病いは「吐き下だし」。辞世は「かたみとて何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじば」の一首と、日頃、何かの話のおりに詠んだものか・・「良寛に辞世あるかと人問はば、南無阿弥陀仏といふと答へよ」の二つが伝わっています。

どうやら、他力易行道(あなたまかせ)の境地に自らを置いて寂に入ったと思われます。葬儀は盛大に行われ285人の会葬者が参列。葬列は三町余に及び、先頭が火葬場についても、棺はまだ木村家の門をでなかったと手紙類に書かれています。

墓は隆泉寺境内、木村家墓地の一隅にあります、

 

【附記】この元服の書㉘は、NHKなどの放送で紹介された・・石仏の森山隆平(1918~2008)・・実は、私の母の弟(つまり叔父)の本の丸写し(コピペ)です。

私事ですが、学生時代、鎌倉(円覚寺)に帰るのが面倒な時は、当時、住まいの西落合のお宅を訪ね、祖母のキクおばあちゃん・・幼い頃、松任の駅におんぶされて汽車ポッポを見せてくれた「ピーばあちゃん」の夕ご飯をいただいたりしたものだった。

その当時から、石佛の写真や詩句を紹介されていたが、同好会のように、石仏に関心のある方々を道案内したり、教導して現地で解説されたりして、実際の見聞を大事に・・(自分が見聞きしたことのみ写真に記録し)詩にされ本にされる人でした。

この「行乞の詩人 良寛」は1992年に母(現在103歳)から私に渡されたもので、同じ本を東京で直にいただいており、計2冊、手許にあります。これは、何度も良寛の足跡を踏まれての作品であり、そっくりコピペして紹介しても、どんな権威のある本も敵わないと思います。

また、本には それぞれの漢詩(と意訳された詩文)に付随して、洒脱な良寛像が描かれており、まるで、その漢詩の禅境(地)を絵解きしてみよ・・と云わんばかりの描き方、墨の濃淡なのです。時に良寛像が「無」「嘸」と読め、時には「如・行」と見え「一人」か「一夢」と思えることもありました。

他に石仏・羅漢の書、良寛や加賀の千代女など多数の著作があり、関心のある方はお読み下さるよう、お勧めしておきます。

以上、良寛の生活の一コマをご紹介しました。

有(会)難とうございました。(3/16「災難にあう時節」・・加筆追記)

 

元服の書㉗ スーパーボランティア 尾畠さんの歩き旅 270キロで中断!

尾畠さんの歩き旅は37日間270キロ、静岡県浜松市で「ココロクバリ」の中断。

どうやら故郷・大分に戻られました。

中学・高校生と60才~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

良寛さんの事を書こうと思った矢先、尾畠さんの歩き旅が中止とのTV・NEWSがありました。尾畠さんの1日の行進は、平均8KM弱・・大人の歩行は1時間当たり約4KMだから、テントや生活道具を乗せたリヤカーを引いているにしても、ひどく遅い印象でした。その理由は、尾畠さんを見かけた町々の人が声をかけ、会話や揮毫をせがみ、それに独り一人、誠実に対応していたためのようです。

歩き旅を中断して大分に戻ったのは、ゾロゾロ、列をつくって面談を希望するオバサンや子供たちを疎(うと)んじたせいではありません。一生懸命、応対に努める内に、ますます順番を待つ行列ができ、人だかりができ、路上にあふれた人が車道にまで出張って、車の渋滞騒動に及んでしまったからです。自分が歩き旅をしたために交通事故が誘発される・・その恐れを感じて中止を決意されたのです。                          人の「人間」たるを評価するのは、言葉や文字でもなければ、財産(金)や役職、地位ではありません。前号で「人の重きは行いにあり」と書きましたが、日頃の生活(ご飯を食べたり、仕事をしたりする)態度・行動にある・・このことをシッカリ肝に銘じて黙々と働く姿こそ・・尊いのです。

話を一寸(チョット)そらします・・このことを学校の先生や親に注意されることなく、自覚できるよう、自分に自分が言い聞かせて、少しでも努力していける者でありたい。

そんな若者であってください。

先生や親や社会に責任を押し付けたり、甘えて言い訳する・・そんな優柔不断なグズグズ人間にならないでほしいのです。

もしイジメや暴力に出会ったら、それに屈する前に、何時でも目前の警察や弁護士に駆け込み、マスコミは、いち早く察知して、その経過をも報道するよう、政府や行政に対策・対応を迫り続けてほしいと思います。

昔から、親はなくとも子は育つ・・という。少子化のおりでもあります。いっそ国家と行政が、そうした子供たちを大学卒業とか、高校を卒業して就職するまで、完全養育して・・その代わり、医者や自衛隊や、仕事に従事した時の数年間は・・日本国に貢献する条件で・・社会参画するまで面倒を見、親に変わる愛情を注いだらどううだろう・・と思います。前に書きましたが、社会が弱者への「ココロクバリ」を忘れ、親が子供への「シンパイ」をなくしてしまうと、国家・家庭は崩壊します。第一「ココロクバリ」の漢字さえ、まともに書けない社会人や親・学生が出現しています。それでいて「シンパイ」しています・・と口先だけのしおらしさで言うのです。

閑話休題(それはさておき)・・

尾畠さんは、自分の周りに集う人たちの交通事故を心配して、歩き旅を中止されました。

私は、尾畠さんを「アメニモマケズ」の主人公のような人・・と書きましたが、ミンナにデクノボウと呼ばれる・・ソンナ人は「心配り」の出来る人なのです。

どうぞ、そっと見守ってあげてください。

 

次回、ホントに次回こそ、良寛さんにたどりつきますが、この大愚(たいぐ・おおばかの)良寛さんは世界で、まれに見る「心配り」をなした方です。

【註】この「禅・羅漢と真珠」は、出来るだけ下書き原稿を作らず、若い方の質問をうけて、機のむくままに書いています(・・気ではありません。機とは心のハズミを云います)

その根底にあるのは、坐禅・・それも・・何の役にも立たないことを覚悟して・・3分間の独りポッチ禅をしてみてください・・のお願いです。

年をとるにしたがい とかく造作、ゴリヤクの想いに捕らわれて、ナカナカ純禅に至りません。若い内に、寝る前/起きる前・通学/帰宅時・トイレの中・・とにかく3分間(1回10秒程度の呼吸×18回数)誰にも知らせず、独りポッチで、背筋を伸ばして、眠らないため眼を半眼にして坐禅してください(そして・・出来売れば、このはてなブログ=千年前の禅者が編集した「禅者の一語・・碧巌録意訳」と「禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱」をのぞき見してください。

有(会)難うございました。 

 

元服の書㉖ 尾畠春夫さん(スーパーボランティア)は、本当に「雨ニモマケズ」の主人公のような人物ですか?

前号、元服の書㉕で、スーパー ボランティア 尾畠さんは「禅者」です・・と書いたが、どうも禅者らしいイメージがつかめないようで、質問がありました。

2019年2月21日 ABCTVのワイドスクランブル「尾畠さん(79)の歩き旅 第11弾」昨日の大井川・金谷峠・・静岡県島田市時点でのルポルタージュが紹介されていました。まだまだ先の九州まで遠いのに、はや引いているリヤカーの引手が破損して修理している話・・「物はイロイロ工夫して大事に使わないといけない」・・周囲には、その姿を見守るその町角の人々がいた。何か悩みを打ち明けている主婦の方に、人生のアドバイスの一コマ・・「地球の人口、何十億の内の私は、たった一人だけ(の遺伝子をもって)生きていると思えば、ホトンド悩みごとは消えますよ」要約すると、こんな話をされ陽に焼けた顔をほころばせ、元気に行脚されている。

このテクテクリヤカーを引いて行脚されるほこりまみれの姿に、私は宮沢賢治の「ほめられもせず、苦にもされず皆にデクノボウ」と呼ばれる主人公がダブって見えてくるのです。

人の行いの重きこと・と・人の言葉の軽きこと!

昔、幽霊と人間について・・の問答を父としたことがあります。

故郷、富山での「禅境画・書」の個展のおりでしたか・・ラジオ放送の取材で大学時同期の今村さんがディレクターで来られて、あとお茶を飲みながら、禅の話をしている時でした。

会場の窓から忙し気に行き来する人を眺めて父は「どうだ?(足はあっても)幽霊だな」という。

私は答えない。箱根山、駕籠で行く人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人・・単に世相を述べた想いだけでした)

たしか、こんな会話をしたと思う。道を歩く人が、まるで足のない幽霊に見える・・坐禅の後の印象話だった。今なら、差し詰め,胡子無髭(こしむしゅ)無門関第4則をひねくり回して、興を添えればよかったと思う。

故・加納白鷗(父)は、はじめ、高岡の臨済宗 国泰寺派本山 江南軒勝平大喜老師に参禅し大魯の居士号を、また、次いで仏教学者・禅の故・鈴木大拙に師事し、白鷗の居士号を得て、京都で作陶・禅境画・書の芸業をなす清貧の作家だった。私、泰次の名は、国泰寺のタイジに因み大喜老師に名付けられた。大学の頃、鎌倉円覚寺、続燈庵、故・須原耕雲(弓和尚)に寄宿。鞭撻を得たので、対山の松が岡東慶寺に、鈴木大拙翁を尋ねたことがある(大魯老居士惠本と書かれた昭和22年発行の「神秘主義と禅」初版本を大事に持っている・・校正が無茶苦茶でなっていない・・と父が附記していてオモシロイ)

また大喜老師の弟子、勝平宗徹さんが南禅寺の師家になられたご縁で、当時、管長の柴山全慶老師を訪ねて、雑誌「禅文化」に掲載する写真を撮影したことがあります。年端もいかぬ若造の私相手に丁寧なお手紙と一行書を書いていただきました。

当時(この頃)の・・達道の禅僧・禅者は、禅語「天地同根」・・そのままの禅による、漂々とした生活をしておられて、すがすがしい清風に吹かれているようでした。

閑話休題(ソレハサテオキ)・・

なにを言いたいかと云うと、禅者とは・・観念論や、宗教・哲学、イメージ(想像、言葉、文字)を飛び越えて、それらに束縛されることなく、無目的で無功徳、無価値で役たたずな、それでいて安心・誠実で、無口で、知らずに周囲を明るくする・・ソンナ「禅ニヨル」生活を常に行っている人のことをいうのです。

一休さん良寛さんなど、真の禅者(禅の臭みのない人)は・・おおらかで明るい笑顔のイメージだけを、それぞれ自分勝手にこしらえて、あてはめるような人たちではないのです。もう片方の現実には、普通の貧しい、明日食べる米もない、寝る布団もない、病気で薬もない・・無一物の暮らしでありながらも・・「平常心」=「日々好日」で居られる覚悟がある・・人なのです。(ですから・・次回の良寛さんは、世に知られた良寛さんではなく、出来るだけ人間臭く、暮らしぶりがわかるように・・例えば、コメやインキンたむしの薬をほしいと訴える手紙や、泥棒に取られるものとてない、寝ている破れ布団を差し出す良寛さんの「禅による生活」行いに重点を置いて紹介するつもりです)

私は、リヤカーを引いて、金谷峠を上る尾畠さんの後ろに、リュックを背負い、後押ししながらついてゆく若者の姿を見て、一寸(チョット)ほっこりしました。まだまだ日本には、求道者がいて、捨てたものではないナ!と思いました。

 

例え人生、独りポッチでも、手のあたたかな人の「看 脚下」・・大地を踏みしめての歩るきが大事です。

尾畠さんは仕事に追われ、スマホのトリコになって、自分の足で歩くことを忘れた幽霊もどきではありません。

かけがえのない尾畠さんだけの1日1時間を・・

大事に大切に・・過ごしておられるのです。

君は、チャント、温かい手や足(の禅)がありますか?

ソレトモ、私が手足を持つ(I Have)という英語表現に漬かりきった人ですか?

有(会)難うございました。 

*2月22/24日 修正加筆しました。

鈴木大拙 翁(1870~1966 世界的仏教学者・禅者)

●勝平大喜 老師(1887~1944 松江万寿寺・国泰寺管長)

●柴山全慶 老師(1894~1974 京都 南禅寺管長)

●加納大魯・白鷗居士(1914~2007 禅境書・画 作家)

●勝平宗徹 老師(1922~1983年 南禅寺師家・管長)

 

 

 

 

 

 

元服の書㉖「雨にも負けず」宮沢賢治の詩の主人公が現れた! 

A:スーパー・ボランティア 尾畠春夫さんについて・・独りポッチ禅では、この方を、どのように評価されますか・・教えてください。

     *中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:信念をもって行脚される禅者として尊敬しております。

まず、私の書いている現在の奉魯愚と禅の関係・・そして尾畠さんについて・・天秤棒のように話さないと、つり合いが取れませんので、この奉魯愚についてからお話します。

私は、はてなブログで【禅者の一語=碧巌録】意訳と【禅のパスポート=無門関・素玄提唱】復刻版を解説、紹介しています。

そして古今の禅(による生活)者・・の足跡や風景を、私の思うまま、感じるままに、自由に切り取って紹介しています。

禅語録(碧巌録、無門関)は、今から約千年ぐらい前、中国の唐・宋期に編纂(へんさん)された・・多くの禅(による生活)者たちの求道問答集です。

(真の答えは、独り一人の自覚、行いにあります)

日本では、禅宗寺院の継承者を養成する専門道場や、本山・寺院で僧堂師家(老師)の提唱(体験的解説)があり、禅についての教導が行われてきました。しかし、教育制度や社会の仕組みは激変しました。宗教についても、随分、考え方や欣求信仰の在り方など変わりました。例えば、千年も前の伝統的な禅の・・師を求めての行脚・行雲流水(雲水)の修行は時代遅れとして、若者は関心を持とうとしません。

現代は、分析・検証の科学的進化を尊重する社会です。

誰もが自分にとって・・面白い(楽しい)か・・役立つ(利得)か・・二つに一つを価値観とする仕事・生活の社会です。

しかし、「純禅」は「達磨 無功徳」・・何をなしても、ゴリヤクがない、いわば、釈尊以来の「無価値な坐禅と、その悟道の実践・・禅による生活」を基本としています。

ところが、戦後・欧米の文化や科学の発達により、21世紀初頭~もともとが宗教ではない禅(無価値=純禅)の求道者はいなくなり、絶滅に瀕する時代となりました。

観光拝観料で成り立つ有名寺院は、写経や精進料理、有名な禅者の書画を見たさに、諸外国から観光客が押し寄せています。

でも、どこを探しても、観光拝観禅や寺院の跡継ぎ養成所、温室栽培禅ばかりで、一休さん良寛さんのような純禅に生きた禅(による生活)者が見当たらなくなりました。

いや・・ひとりいましたよ。宮沢賢治です。彼は詩人・作家と云うより、禅(による生活)者であると、私は思い込んでいます。             

彼の「アメニモマケズ」の「みんなに木偶の棒と呼ばれ」・・る暮らし・その行いが、禅の独り寂寥の大地に立つ「役立たず」とピッタリ合致するのです。

私は、お金や名誉、地位(組織。団体)に執着せず、他人の為だけに奉仕する・・五欲(色欲・食欲・睡欲・名欲・利欲)のない・・「雨にも負けず」のような・・生活実践者・・こんな無功徳(無価値)に生きて、廓然無聖(純心)な人を「禅者」と呼んでいます。

悟りや禅を自分の都合のいいように解釈したり、勝手なイメージを膨らませて、日常、現実の暮らしとの格差に、幻滅することは よくありません。

次回に紹介する良寛さんでも「焚くほどに、風が持てくる落ち葉かな」と、一見、鷹揚にかまえているように見えても、イロリのお鍋には米が乏しく、水虫の塗り薬を頂きたい・・と布施を乞う手紙が残っています。

コンナ手紙を今時は額装にして、何十万円で売り買いするオークションを見たら、良寛さんは、現代人を何と思うでしょうか。

おそらく、享楽に溺れる自己中の社会にあきれ果てることでしょう。

ただインドで死を迎える庶民を看病して弔った故・マリア・テレサさん位に、宗教をこえた「禅」の心を知ったでしょう。

さて、アナタが問われた、スーパー・ボランティア、尾畠さんは・・現代に生きる数少ない「禅者」であると思っています。

赤い鉢巻を頭に巻いた尾畠春夫さん(79才)・・報道によれば、東京から大分の自宅まで1320キロの行脚(徒歩・野宿)の途上とか。2019年1月30日現在、まだ神奈川県内、国道沿い。一日わずか1時間程度の行軍が精いっぱいだ・・とのこと。大幅な予定の遅れは、子供連れのお母さんたちのスマホ自撮りや、色紙書きに並んで待つ人々に丁寧に応対するため・・だそうです。

どんな言葉を色紙に書いておられるのか・・お風呂はどうしておられるのか・・洗濯や食事は?・・トイレはどうされているのか・・持病はないのか?・・

昔、山頭火が乞食行脚した・・「しぐるるや道は一すじ」・・「まったく裸木となりて・・立つ」を「歩く」と置き換えれば、尾畠さんの境地であろうと思うのです・・こうした行脚・流浪の人を「散聖・捨て聖・野風・遊行の道者」などと呼びますが、そのおひとりであろうと思えてなりません。

一休さん良寛さんや山頭火、あるいは宇治 黄檗山万福寺(隠元隆琦・禅浄双修の念仏禅)の鉄眼道光(1630~1682 畿内の飢餓難民を救済して救世の大士とよばれた方)また、乞食の聖者と云われた雲溪桃水(1612~1683 曹洞宗)・・無宗教的な立場をとった江戸初期の鈴木正三(1579~1655)など(不思議に三人とも同時期の、いずれも世俗を離れた禅者達ですが)それぞれに出家、僧形の禅者であり、道者であるように、近隣住民の信を篤(あつ)くして尊敬されていました。

けれど、今は、デジタル社会です。都会人・エリートの暮らしぶりは立派ですが、それも建前だけ。幼稚園を建てるにしても子供の泣き声がうるさいから・・と反対の住民が騒ぐ、当たらず触らず、我 関せずのスマホ病の無関心社会です。                 

その無情なビル、マンションが立ち並ぶ、舗装された国道を手押し車を引いて尾畠さんは・・ヒタスラ歩かれています。講演しても謝礼は受け取らず、携帯をもたず。通りすがりの道端の人の、わずかお握り程度の喜捨があるだけ・・の中を・・です。たったお握り一つの施しでも、幼くして亡くなった母や山河大地の慈愛を感じて涙ぐむ尾畠さんを「御モテナシ」できる地域の正直な人々が、この長い行脚路に、はたしてどれだけ おられることでしょうか?

現代日本では、僅かに、四国のお遍路さんに路傍・ご接待の面影が残るのみとなりました。都市に限らず、大方の田舎でも、薄汚い孤独な老人は見て見ぬふりをする建前社会です)

万一に病いや困窮に倒れることあれば、どうぞ、今までチヤホヤと取材、放映してきたマスコミや、ボランティアしてもらった市町村など、挙って介助してあげて欲しいと願っています。

私は、私達の・・誰でもが知っている宮沢賢治雨ニモマケズ」の詩集から・・「そういう者に私はなりたい」・・の主人公が奇(貴)しくも現れた・・のだと思っています。

     雨ニモマケズ  宮沢賢治

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ 

   サムサノナツハオロオロアルキ

   ミンナニデクノボートヨバレ 

   ホメラレモセズ クニモサレズ

   サウイフモノニ ワタシハナリタイ

                 *宮沢賢治全集 第十三巻 筑摩書房 1997年発行

 

有(会)難とうございました。

次回は良寛さんを紹介しましょう。

 

◆元服の書㉔ 文字がないと文明が亡びる・・本当ですか?

元服の書㉔  

◆「ココロクバリ」を漢字で書いてください。

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:文字を手書きできないと文明が亡びる・・って本当ですか?

A:チョットおおげさですが、あながち嘘と決めつけるのは早すぎます。漢字文化は、漢字の発明から現代まで約6千年。知識や情報の保存、伝達に、文字や活字を発明して発展してきました。ところが、紀元2千年を機にデジタル化(PC・AIやスマホ)の在り方が問われています。国と国、会社や社員、家族同士でも電磁的通信手段で映像交信でき、便利で楽な自動化(ロボット)時代が急激に進捗(しんちょく)して混乱しています。

日本や欧米で、深刻なスマホ依存症が発生したように、過度なデジタル化に頼る社会は、危険で、注意しないと知らぬ間に人間が絶滅危惧種になりかねません。

何故か?・・大事なことは「人間、考える葦である」(哲学者パスカル)・・「考える」のは、人間の頭脳が「言葉・文字」を駆使して比較・判断しているからです。

 

ここでは「看る」を取り上げましょう。この字は「手と目」で成り立っています。いわば人間の五感すべてを活用して・・例えば、赤チャンの面倒を看る・・とか、看病するとか・・禅語「看 脚下(照顧脚下の意)」など、温かい手を添えて見守る意味の字体です。

もし「倒れている人を観てください」と文字に書かれたとしたら、観察するか、写真にとるか・・そんな意味になりますし、たとえ遠くで見かけて119番した方があれば「観る」ではなく「看て」判断し電話したのだ・・が正解でしょう。

自分が「考え、思う」そのこと・・お互いの意思、感情の疎通手段である「言葉・文字」は、出来るだけ当用漢字に限定せず、より多くの漢字と語意を共用(教養)する社会であってほしい・・と思います。

昔、ある小学校の理科の教室でコンナ話がありましたね。

「固体と液体・・氷が溶けたらどうなりますか?」

女の子が、嬉しそうに手を挙げました「ハイ・・氷が融けると、春になります!」(この答、私は正解にしたいですが、理科の勉強での正解は「水」です)

(京都弁の「オーキニ」は30種位の感謝度合いがある表現だそうです)

つくづく漢字と平仮名を交えた日本語こそ、世界のどの国にもまさる「繊細で多様で、情緒ゆたかな」言葉・文字を誇れる国だと思います。ところが、若者だけに解かる専用の言葉が増えてきました。彼らに言わせると、だんだんKYでウザイ人が増えてきたことになります。

さて、はじめに戻りましょう。

ココロクバリは「心配」と書きます。

シンパイの漢字が書けないなら、ココロクバリも出来ないことになりませんか?

「配慮」とは、おもんばかり(智慧)を配る(他の人に施す)の意ですが・・車中、老人に席を譲る人の優しい「配慮や心配(気配り)」・・抜きに・・出来る行為でしょうか?

先ほどの禅語「看 脚下(かん きゃっか」・・手と目で足元を看よ・・の意味ですが、見たり/観たり/視たりでは、絶対、禅の「如意(にょい)」による【行い】に添いません。しかも外国語(英語)などでは「如意」とか「般若空(はんにゃくう)」とか、「無功徳(むくどく)」とかにピッタリとマッチする言葉・文字がありません。

外国の方が禅を学びに日本に来ても、公案「隻手音声(せきしゅ おんじょう)」とか「釈迦 拈花微笑(ねんげ びしょう)」とか「達磨 廓然無聖(かくねん むしょう)」とか「趙州 無字(じょうしゅう むじ)」とか、文字の比較、相対的な意味にこだわって、ナカナカ「如意」を理解できません。この漢字すら意味不明で書けないのです。

「無=空=如意(如去如来)」の字体は・・「牟・嘸・巫・懋・舞・无・・」など、無のつく熟語・・有無/絶無など123の語彙(角川 新字源)に展開していて・・到底、理解しきれないほどの、東洋の「情緒的思惟」のイメージがあるからです。                       

こうした情緒あふれる日本語が、急激に電磁的(スマホ)社会にあって、わずか千か二千の当用漢字の語彙(ごい)を学校で教えるにすぎないことになりました。つまり千か二千の文字でしか思考・・情緒できない国になろうとしているのです。現代語は、世界に通用しないカタカナ英語と、仲間にしか通じない言葉を造語して成り立ちつつあります。

また、マスコミもそれをあおり、日本語(その伝統文化)は、絶滅危惧種になってしまったというのは過言でしょうか。

近い将来・・本や新聞の読めない人の為に、ルビを振る漢字を習字する国語の時間が設定されるかもしれません。【香を聴く】の意味とは?・とか・・【漢字の熟語】出来るだけ「かんじ」で書きなさい・・と、小学校の国語テストに出題される時代が来るかもしれません(漢字・幹事・監事・莞爾・官寺ほか113・・PCで記載されています、大人でも10種 まともに書けるかどうか?)

文字をチャント手書きして、その意味を認知できない人々の・・デジタル化社会を想像すると・・思考や情緒まで亡失(失望)されて、本や新聞を・・見(看・観・視・診)る・・ことが、ホントに絶滅する(のでないか)と心配になります。

元服の書㉓ 親鸞さんはどんな方ですか?

元服の書㉓ 

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:一言で云えば、オノレ・・独りの為に、弥陀の本願はあり!と云われた方です・・

先にブログで述べた一休さんもそうですが、今回の親鸞さんや禅の達磨さん、釈尊など、どんな人物像も、時代背景を抜きにして、現代感覚で判断、批評はしてはならないと考えています。

当時、それぞれの文化や社会制度は、現代に比べれば、ひどく、残酷なものでした。ただし、科学や文化全般で言えば、世界史一つとっても、今の小学生以下の知識、教養であっても、自分とは何か・・無常な社会に生きるのはどうしたらよいか、死ぬことはどうゆうことか・・自分を見つめ考えることや、先達の教えを求道する姿は、遙かに優れていたと思います。

どんなにAIやスマホで検索し、有り余る情報社会の只中にあっても、死や争いや利権、欲望、自分本位の行動の本質は、かえって悪化していると思います。

人生四・五十年の昔の人は、寿命百年の現代と比較して、濃密で自由な生き様でありました。

寿命が倍に伸びたのなら、熟成の年月も倍になるのが、考えることのできる人間でありましょう。

若者に「ココロクバリ」を漢字で書いてください・・といったら半分の人が「?」でした。字は「心配」と書きます。他人をシンパイすること・・すなわちココロクバリ出来る人が、それだけ減少したことになります。

それでは「シン」の字体は、いくつあるでしょう。

私は65歳を越して、仕事の傍ら・・はじめて、千年ぐらい前の、中国の禅者の語録(日本の禅寺で提唱されている)無門関や碧巌録の意訳を試みました。

若い時から、鈴木大拙先生(全集)や、師家の翻訳、解説など、読んではいても、生の漢文を読み下すのは大変です。戦前までの寺僧、先達があればこそ、また翻訳、語学者、辞書あればこそ、どうにか意訳できるようになってきました。

(でも、今でも、一文字の中に、どれほどの深い意味が隠されているのか・・?という想いや、形象文字の不思議さに取りつかれて、一晩を明かす・・年寄りに体の毒ですが、時にそんな日があります)

PCは【0と1】で演算し、人は文字、言語で思考すると云われます。

さてシンの字は【新・真・深・信・心】位か・・せいぜい【臣・神・身・浸・呻】の10文字の当用漢字を知っている程度で、あとはPCの検索まかせ、文章事例まかせのKYで、何の文化、ホントの文明の進化でしょうか?自分に利権のあることにのみ考えて行動する・・自分勝手な社会=集団が、繁栄した例はないと思います。

「シン」の字体は角川「新字源」によれば135文字。

「心」のついた身心や心痛など122熟語ありました。

寺小屋で学んだ読み書きソロバンの実用教育の方が、はるかに心豊かな社会であつたというのは、私一人の思いでしょうか。

昔の作家は、信奉する作家の文体を、そっくり筆写して作法を学んだといいます。刀工や宮大工、職人や板前は現代でも、その風、業(わざ)を身をもつて学びます。

禅も、教義学習からではなく、仕事や勉強の合間の・・独りポッチの坐禅の実行から始まります。

起床の時、就寝の時、昼休み・・など、タッタの3分間・・イス禅、寝禅、トイレ禅ETC・・チナミニ、この奉魯愚を看(見)終わったら、独りイス禅、やって見てください。ソンナこと、すぐできると思ったら大間違い。役立たずの数息観イス禅で3分・・

まともにできた人をナカナカ見かけません。

独りです。仲間を作らず「全世界で唯、アナタ独り」の坐禅をしてください。

(独り五合庵で雨音を友として暮らされた・・禅者、大愚良寛さんの記事は、もっと私の中で発酵・熟成(吟醸)してから記載する予定です)

愚禿親鸞(ぐとく しんらん 1173~1263)は、鎌倉時代、前期~中期・・方丈記に書かれている養和(1181年)の飢饉・・洛中の死者4万人以上の頃、9歳で得度され、法然の専修念仏に入門された・・後に「教行信証」1247年を完成された浄土真宗の開祖と云われている方です。

一説に、法然上人の浄土往生を全国に布教する、他力本願の念仏道場を広めるため、独り、禿げ頭の半僧半俗(妻帯・4男3女)の人として、開宗なさる意思はなかったと伝記にあります。私は、この「弥陀の本願は、この親鸞一人の為にある」との確信に満ちた言葉。そして地獄のような飢饉、疫病、災害、戦乱の世相に、自我を捨て果てて浄土を欣求する姿に畏敬の念を覚えます。さらに仏教学者であり、禅者であつた鈴木大拙博士の著作に・・念仏で「禅による生活」を体現した「妙好人」がおられるのを知って、自力と云い、他力と云うも、突き詰めれば「本願」=禅・「悟り」は、何ほどの区別が出来ないものだと思えるようになりました。

ちょうど親鸞上人にオーバーラップして、遊行聖(ゆぎょうひじり)と呼ばれた、踊り念佛の一遍上人(1239~1289)の出現で、一層に確信の度は高まりました。

その法語に、自力他力は初門のことなり。唯一念仏なるを他力とは言うなり「生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り。さすれば共に果(はつ)るなき故なり」とあります。 

また34歳の頃の法語に「地獄のおそれや極楽を願う心も捨て、諸宗の悟りを捨て、一切のこと捨てて申す念仏。愚老の申すことも捨てて山河大地ことごとく念仏ならぬものなし」とあります。

親鸞と同様、開宗(教祖)の意思なく、狂乱の踊り念仏を見世物にして、独り・・捨て聖として・・満50歳、栄養失調で亡くなられたと云います。

お断りしておきますが、私は、浄土宗や浄土真宗の教団や禅寺僧侶による組織を仲介にした信仰は持ち合わせておりません。

親鸞その人を信じて「南無阿弥陀仏」と祈る・・「禅(による生活)者」の一人です。元服の書㉒末尾に書きましたが・・この誰も窺いしれない寂寥の「独りポッチ」の心情を、貴方も自分で探索してもらいたい・・と願っています。

有(会)難とうございました。

一休さんとは、どんな方ですか?【元服の書㉒】

元服の書㉒ 

一休さんとは、どんな方ですか?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:おそらく・・キライな(禅の臭い)を消した方でしょう!

正月は、冥途の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし・・髑髏(どくろ)杖を手に、鈴を鳴らして、こんな文句を触れ歩いた・・と言われる一休さん

私は、どうも「・・?」です。

たぶん、後世に脚色されての伝聞となったのでしょう。

禅者/詩人 一休宗純(1392~1481)を語るとすれば・・将軍、足利義政の圧政の中、治療法のない伝染病や、テロ、クーデター(応仁の乱など)地震台風による災害・・中世大動乱の時代、悲惨な社会体制の中で真に「純禅による生活」をなした方であると思います。

禅宗、京都大徳寺の最高の地位にありながら、政財界との利権や癒着、権力にオモネル寺僧を嫌い、庶民そのままの生活で、酒や風俗店で遊びました。齢七十七を超え、住吉薬師堂で琵琶を奏でる盲目の森女との出会いがあり、その後、十一年間、幸せな同棲生活を送られました。また、愚禿(ぐとく・禿げ頭の妻帯者)親鸞の生きざまを褒めて信者ともなった・・時代の風潮に迎合しない(風狂の)禅者であり、詩人(文学者)でした。

一休さんにとって、年始(正月)が目出度いとか、一年の計が元旦にありとか・・そんな社会的評論が頭の片隅にある訳がなく、森女の膝枕でうたた寝しながら「死にとうはないなぁ・・」とボソボソ語りかけたと思うのです。

例えば、日頃の優しい配慮ぶりは、雀を飼っていて亡くなると、雀(じゃく)を釈(しゃく・釈尊)と言い換え、その涅槃にあやかって「尊林」という詩をつくって弔らった事・・その後、別の「葉室」という雅号の雀を飼う・・如き・・天地同根の一休さんで明らかです。

また号に「瞎驢(かつろ)」とありますが、これは禅・臨済宗開祖 臨済義玄と弟子、三聖との「我が正法眼蔵、この瞎驢辺(愚かなロバ)に滅却せんとは・・」の、正伝する弟子なしに死せんとする臨済の一喝問答に由来しています。

臨済禅は、この三聖で終わりとなるのか・・との遺言です。従来の文章解釈では、禅特有の貶(けな)して誉めている文句だ・・とするのですが、一休さんは、真っ正直に、禅は臨済で途絶えた・・と解釈しています。

私は、かねてから「禅」は、剣道の免許皆伝のように、師弟継承できるものではない・・役立たずの独りポッチの坐禅で、独り一人が自覚するのが純禅である・・と云い続けてきました。

釈尊以来、禅は、独り一人にあり・・「臨済の正伝は途絶えたのではない。もともと伝えるとか、伝えないとかいえるものじゃない。はじめから1点も伝えるものなどない」・・という説に賛成です。この羅漢と真珠の、年頭挨拶(禅者の至言)=臨済と鳳林(ほうりん・臨済碌)の偈のように、独り(イマ・ココ)の覚悟が、その人の生涯、あまねく禅による生活に及ばないと、自笑一声に成らないのです。

一休さんは、遺偈(いげ)で「須弥南畔(しゅみなんばん・全世界で)誰か我が禅を會(え)す・・」と書いています。

この誰も窺いしれない、厳しい「独りポッチ」の生活心情を、貴方も自分で探索してもらいたい・・と願っています。

浄土真宗親鸞二百回忌 報恩講蓮如上人から親鸞画像をもらい受け「襟まきのあたたかそうな黒坊主、こやつの法は天下一品」と画賛しています。また、国柄や身分や宗派など(一切)関係なく(ただ独りのココロによる)覚悟が大事と述べています。有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み。雨降らば降れ、風吹かば吹け・・も、禅者の一語としては覚悟が甘く、悟りの証明である印可状を焼き捨てた一休さん。ヤルことナスこと、出家の規範をはずれ(かといって、人間としての真実から外れることなく)自由、大道を歩いた人でした。

おそらく現代社会にタイムスリップした一休さんを想えば・・TVやスマホやAIなど、電磁的映像的情報に関心を示すことはなく(ラジオでニュース位は聞く程度で)マスコミや利権を嫌い、どこかシナビた地で、森女や雀やコオロギの♪🎶♫音楽を膝枕に聞きながら、人々に親しまれて暮らされることでしょう。

自分の米味噌に換えた揮毫が、現代、古美術として何百何千万に売り買いされ、住居をゾロゾロ拝観料を払って覗きまわる観光客をナント評価されるでしょうか・・聞きたいものです。

(参照)*禅僧の遺偈 古田紹欽 春秋社(1987年) 

    *一休 狂雲集の世界 柳田聖山 人文書院(1980年)

    *臨済碌講話 釈 宗活 光融館(昭和16年