元服の書㉜ どうして役立たない坐禅を薦めるのですか?

独りポッチ坐禅を どうして「役立たない坐禅」と云って薦めるのですか? 

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

人が悩み、苦しむ時、坐禅が「役立つ」ものなのか・・「役立たない」ことなのか・・本当の「坐禅」を見極めてもらうために書いています。

この娑婆(現世)の不安や悩みの解決に「役立つ」はずの坐禅を試されて、長続きせずに挫折される方がほとんどです。それなのに、どうして「役立たない坐禅」を薦めるのか・・宇宙でただ一つ、人にとって役立たない無価値な坐禅をワザワザ行うことの大事さを知ってほしいのです。

いっそのこと、坐禅しようなどと思わずに、悩みを放り投げておけばいいのでしょうが、それでいて「役立たない」坐禅とか・・達磨の「無功徳」な禅とか・・の言葉、文字にこだわり、あるいは 役立つ坐禅がないものか・・

思いあがくのが人間の業(ごう)というものです。

推奨する「独りポッチ・イス禅」は、本や学問、寺僧の教導を受けない坐禅を行うように・・との、まったく単純な話です。

とりわけ「ZEN」に関心のある外国の方には(西洋は骨の髄から哲理、物理で成立している合理的社会ですから)ゴリヤクなしの禅について納得するのは、ナカナカ難しいことでしょう。

欧米の方にお薦めできるのは、仏教学者であり禅者であった故・鈴木大拙先生の「Living by ZEN」ただ(英語版)1冊。はるばる日本に尋ねてこられても、形骸化した禅寺や修行と称する、お坊さん専門の養成道場があるだけで純禅は絶滅しています。

禅は、教えられたり、学問して解かるものではないのです。

ただヒタスラ、独り木偶(でく)の棒のように坐禅したり、自己内面に求道し続ける好奇心がなければ、悟り(発見発明)がありません。

仕事や家事をしないで、坐禅三昧とか・・出家を口実に葬式仕事とか、昔、著名な禅者がいた寺僧の(拝観料めあて)の生業(なりわい)。TVに出演してトクトクと禅を語る・・出版(文字化)や講演(提唱まで)が、禅を紹介できる限度であると承知しない禅(モドキ)者は語るに落ちた仕業です。・・千年前の禅者たちは、川の渡し守をしたり、薪を売り歩いたり、農作や大工仕事をしたり、生活の糧、生業(なりわいの為)に働いて、折々に、独りで坐禅したのです。

中には乞食桃水(雲溪桃水・ウンケイ トウスイ・江戸期、筑後柳川の生まれ。宗派に拘らず、臨済の大愚、沢庵や黄檗隠元に参じたりした曹洞禪の禅者)無宗派自由人の鈴木正三に参じて影響を受け、大仏の掃除男、駕籠かき、馬のワラジ売りなど転転と移り住み、河原の乞食になり、最後は京都、鷹ガ峯でお酢売りをして死んだと云う・・名利を捨て果てた野聖の禅者がいます。日本の禪史上、宗派・寺僧に関与せず、独り坐禅も忘れて亡くなった、極め付きの散聖の禅者と云えましょう(無常迅速・・詳しくは、ご自分でお調べください)

禅は知識や学問、先達の教導、経験話・・一切、誰にも頼らず、坐禅する中でしか発芽し、開花し大樹となってくれない、自分だけがハッキリ自覚する体験です。

よく効果・効用のない坐禅を薦める、その理由を教えろ・・とメールが来ます。

実は・・この問いそのものが答えなのですが、知識、経験が邪魔をして、ナカナカ、自分が自分に納得できません。

現代、日本でも、電磁的媒体や教育偏差値、競合格差を当然とする人が多くなって、禅でいう「如」の行為がわからなくなってしまいました。

大袈裟な言い方ですが、この日本で一人でもいい・・この地球(宇宙)で たったの独りでもいい・・ダルマのいう「無功徳・無一物」の役立たずの禅を、造作なく(臨済の言葉)行(おこ)なって「禅ニヨル生活」を為す人が出現してほしい・・と願っているのです。

私が明大生(1960~)の頃、父が戦前・戦後・・参禅の師とした故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)が 北鎌倉の東慶寺(松が岡文庫)におられた縁で、円覚寺続燈庵(故・須原耕雲老師・焔魔堂弓和尚)に寄宿。禅に関心をもち、坐禅をし、神田の古本屋で見つけた碧巌録や無門関の提唱本を、安保騒動にかまけて読み漁りました。当時、ヤルコト・・ナスコト・・冷や汗ものの、いい加減な青春時代でしたが・・後に、坊さんのトナエル四弘誓願の一語「煩悩無尽誓願断」(ボンノウムジン セイガンダン)に引っかかりました。

悩みは尽きないが、誓って断じます・切って捨てます・・という求道の誓いの言葉です。                          ところが、禅では「煩悩即菩提」(ボンノウ ソク ボダイ)といって、悩みや苦しみは、ソノママが悟り=釈尊(大覚・大慈)である・・とするのです。                             出家して迷える大衆を誓願度(救済)するべき禅の坊さんが、悩みを断ち切りたい(誓願断)と、悩みソノママが菩提(さとり)であることをゴッチャに丸めて、どうしようとするのか・・どこの誰も、この疑問を解決してくれませんでした。

仏陀の教え(仏教仏典)に嘘も方便。幼児が火宅にいて救い出す話があります。                              母親が、いきなり騒ぎ立てるとビックリして立ちすくむから、楽しく遊ぼうよとやさしく誘い出す例え話です。どうもこれは、うまく出来過ぎています。                              もし大火災であつても、そこに愛しい幼児がいたら命に代えても飛び込んで救い出すのが子を想う大慈(愛)・・母親ではないですか。火宅下にヨチヨチ、ニコニコ歩いてくるのを待つ母親などいやしないのです。

火事話のついでに・・「焼け和尚」と名がついた禾山禅鉄(かざんぜんてつ)の逸話が「禅の伝統」高橋新吉 著(宝文館出版)に書いてあります。                               伊予の大阪といわれた八幡浜市、大法寺の住職だった明治14年9月の一夜の事。火の手が本堂を嘗め尽くす中、師、越渓禅師の碧巌録(注釈・書入れ本)を須弥壇(しゅみだん)から取り出したものの、顔面、両耳焼けて瀕死の火傷で鬼の顔となって生還した。これを不惜身命というが、母親の子を想う心も、本来、そのようなものだと思います。

これとは裏腹に(二ユースで)子育てに疲れた親の虐待とか、子殺しがあり、悩みの果てが悲劇では、どうにもなりません。不審な家庭状況の場合、地域社会が問題がなくなるまで子育てを請け負い育てる仕組みが要りましょう。

煩悩即菩提が真実とすれば、誓願断とか、断捨離とか・・ゴミ箱整理の話ならともかく、禅(坐禅)では(不思議なことに)悩み・苦しみが、そのまま菩提(自覚・大慈)である・・これを達磨の道う無功徳(ゴリヤクなし)に体験しなさい・・と示すのが禅であり、禅者である・・と思います。               とにかく宗教(禅)臭きは「禅」にあらず・・です。

さらに、自覚(見性)して、どうなるのか・・どうするつもりか・・

宿無し興道と云われた故・澤木興道老師が、著作「道元禅の神髄」で述べておられる・・「万象の独露身(どくろしん)ひとり寂寥に身をゆだねる」・・役に立つも、立たないもない・・渓流の潺(せせらぎ)か・・路傍の小石になる生きざまが禅者である・・が結論となることでしょう。

 

寺僧の教導による坐禅をどれほどしても、    

それは何の役にも立ちません!

達磨・無功徳(役立たない)独りポッチ・イス禅だけが

「煩悩(悩みや不安)即(そのまま)菩提(さとり)」を

自覚させてくれる行為です。

有(会)難う ございました。(6/27 乞食桃水・追記) 

 

◆元服の書 ㉛ 生きるべき道と風に舞う無性のホコリ

庭掃除をしている禅者に、求道者は云った「大悟されたアナタが、今さら掃除をする必要はないでしょう」

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

そしたら、すかざず「ホラ・・また(迷いの)塵が飛んできた」と、厳しい一語がお返しされた。

   これは、たしか趙州の言葉として、趙州録か・・で見た禅語だが、  

   今 確認するヒマがないので関心のある方は調べてください。

 「人の生きるべき道とは何か・・」

貴方にウッテツケの禅話・・中国唐代120才まで、禅を教導した趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん778~897)の禅語録から、その答えを紹介します。

師の南泉に「如何なるか是れ道」と尋ねた趙州に「平常(心)是道」びょうじょう(しん)ぜどう・・と一語されて、ソノママ大悟した有名な逸話は・・(はてなブログ/禅のパスポート)素玄居士提唱、無門関十九則で意訳中、近日 掲載します。

今回は 小さな禅院を構えた、老熟した趙州に問答する求道者(趙州録)の一節です。

   問う「如何なるか 是れ道」

   師云く「墻外底」(しょうげてい・アンタの歩いてきた小道は垣根の外だ)

   「者箇(しゃこ)を問わず」(ソンナ小径じゃありません)

   「什麼(いんも)の道をか問う」(いったい、どんな道だい?)

   云く「大道」(大きく沢山の人が歩む道のことです)

   師云く「大道透長安」(ナンダ・・大道は長安の都に通じているよ)

 何か・・問う求道者と趙州(禅者)との間でチグハグです。

上から見れば重なって見える会話でも、横から見れば隙間のある チャントした対話になっていない空回りの問答です。

「ドウシテカナ・・?」と感じた、ソノママで、あとは独りポッチの坐禅をして、食い違い・行き違いの発見は、アナタだけでしてください。柔道とか茶道とか、ゴルフ道とか・・ナンでもカンでも「道」をつけたがる日本人ですが、ゼッタイ「禅道」とは云いません。「座禅」とも書きません。

「平常心」とは、スポーツなんかでいう日頃の「非常/平常」の比較から言っているのではありませんし、大道とか小径とか・・対比、大小、分別、差別して趙州は語りません。

趙州には「道は足下」にあり。風に舞い上がるゴミや落ち葉を掃除しているだけなのです。この生々溌剌(はつらつ)な禅境(地)に到るには、大悟して、なおも三十年の修行が必要だと無門は云っています。

 無門曰く 

 趙州たとい悟り去るも さらに参ずること(坐禅)三十年にして始めて得(う)べし。

禅は、仏教の一部として寺僧の教導がありましたが、育ててもらっただけで、本来、仏教(宗教)ではありません。

また、哲学や道徳/倫理・論理的検証の学問でもありません。

ただ・・無功徳(むくどく、ゴリヤクなし)の独り坐禅で、自己発見・発明(悟り/見性)して「禅ニヨル生活」を行っていくだけ・・のことなのです。

私は、坐禅の初歩・・はじめっから終りまで、何かゴリヤクのある「坐禅」と考えず、何も役立たない、効果効用のない坐禅をすることが、純禅の在り方であり、釈尊や達磨、禅語録に登場する禅者の「禅ニヨル生活」であると思います。

貴方が「人の生きるべき道とは?」・・と、内側から湧いてきた「?」を大事にして、この奉魯愚で記述した・・サモサモの解説で納得しないことを祈ります。またテレビや本やスマホ情報、お仲間、団体・組織などあらゆる 社会の干渉から離れて、先入観念に影響されることの無いように。

但し社会生活は、誠実に協力していくことは当然のことです!

 あると思うな親と金!

   ナイトオモウナ運ト災難・・

欣求宗教・組織的教導や知識・薬物による依存は、最も悟りを妨げる出来事です。読み捨てにして、一日1回でも、たったの3分間・独りポッチのイス坐禅を為されますように。一番厄介なゴミは、捨てても捨てても増殖して湧いてくる・・言葉・文字による(頭の中の想い)妄想です。わずかに、3分間ほどの独りポッチの坐禅だけが・・空気清浄機のように毎日のゴミを吸い取って、無性(無聖・無償)で霧消してくれるのです。

有(会)難とうございました。                     

 

 

◆雑感⑴ ゴルフパターと阪神大震災

Qトランプ大統領が来日、安倍首相とゴルフしたとか・・

「ゴルフ」はされますか・・? 

昔、会社の接待ゴルフはしました。今はしません。

そのゴルフの初めて・・を教わったN.Kさん。

戦前からの生粋ゴルフ道の方でした。

 

昭和52(1977)年・・私が関西で独立、創業して以来、事業などで教導いただいたN-Kさんが2002年お亡くなりになった。

香典返しに戴いたC社の10万年間1秒も狂わない太陽光発電の腕時計が17年たった・・現在も正確無比に時を刻んでいます。

地震と云えば、私にとって、阪神神戸大震災が忘れられません。

平成七(1995)年1月、阪神神戸大震災でN-Kさんのお宅は全壊しました。東京で会議をしていた私は、翌日、阪急西宮駅から、全壊した家やビルや倒れ掛かる電信柱を潜り抜けるように、神戸方面のN-Kさんと娘さんや、他、数名の従業員の安否を確認に、壊れた家の間を歩き回りました。関係先のどなたも無事でした。N-Kさんが姫路に避難されるまでの1週間ほどは、寒いガレージで暮らされて、水かお茶と、ホカロンと懐中電灯を要望され、ツイデニご近所にもさしあげました。イザ大変な災難に遭遇すると・・ジュースやパンなど、数日、口には入らないのでしょう。TVやエアコンやピアノが、隣の壁を突き破って、飛び込んできた・・暗闇に屋根の雀が瓦に当たって全滅した・・ベッドで寝ていた人は、どなたも、おそらく70CM位は、飛び上がったのではないだろうか・・東灘区のご近所でも死者が出て、市役所前では、段ボール製の棺桶が組み立てられていくのを、救援に行ったはずの私も救援のパンをもらい齧りながら眺めていたのを思い出します。

どうにかこうにか大阪の事務所に戻ると、普通の会社員姿の人々が行きかい、夜のネオンがまぶしくなって、薄汚れた(ボランテアの)私が、異次元から辿り着いたように思われる・・時差現象にトマドイました。

 閑話休題(それはさておき)・・

N-Kさんは、戦前からの芦屋ゴルフ場会員です。事業を始めたばかりの生意気な私が、初めて接待ゴルフをすることになり「ゴルフの仕方」を教えてもらった方です。積年、貿易関連の仕事をされ、娘さんが私の会社に勤めることになったのがご縁でした。東灘区にお住みでゴルフ練習場が近くにあるから、練習して後、芦屋ゴルフ場に連れて行きます・・と云うことで、早朝、お伺いしました。練習用のクラブをお借りして、練習場に出向いたところ、そこのマネージャーが、借りてきたクラブ(パター)を見て顔色をかえて言いました。

「チョットお待ちください。もしかして、そのクラブ・・竹製ではありませんか?」・・見れば、力を入れて振りまわして、地面に打ち当てればペキンと折れてしまう代物です。出来るだけ力まずにスイングする練習にと、竹製のヤワイのを貸してもらったのだ・・と思っていましたが・・「トンデモナイ、これは戦前に造られた貴重な品です。できれば、ここの応接室に飾っておきたい位の逸品です。こういっては失礼ですが、よくド素人の貴方にポンとお使いなさいと貸されましたな。貴重なクラブです。大事にされて、当方の練習用クラブをお使い下さい」と云われて・・ナルホド・・ゴルフは、イギリス人のド根性=ジェントルマン・スポーツであると、初めて、身に染みて得心できた次第です。

 

芦屋ゴルフ場は、コースのどれも距離が短くホールイン・ワンが狙えるように見えましたが、グリーン(のアンジュレーション)が、微妙で、ホールまでの たった1メートル・50センチが、往ったり来たり・・バンカーにつかまって8回も空振りして、もういい加減ギブ・アップしたら・・とキャデイさんの声がかかっても「Never give upでやりなさい」と、N-Kさんから厳しく言い渡されました。

決して安易な「OK」はしてもらえませんでした。でも、ようやく、コロコロと2メートルほど転がった時でも・・タッタ1本の7番アイアンだけで、グリーンまで通しで対応しても、その慈眼は変わりませんでした。

私は、以降、ゴルフの接待で、相手の方にも自分にも下卑た応対や、いい加減なOK・お世辞のゴルフはしたことがありません。

N-Kさんに学んだ戦前からのゴルフ道・・を自分なりに踏襲できたのが自慢です。

あの日、記念に芦屋ゴルフ場の帽子を買っていただき、裏にマジックで、ファースト・スコア138とマジックで書いて、初心の心構えを忘れないようにしています。

私にとって「ゴルフ」は、紳士の真の「遊び」だと思います。

来日したトランプ大統領も、国賓として迎えた安倍首相も「Golf time is GOLD」・・ゴルフ道と武士道が、実は一緒の事なのだ・・の思いを持たれたかどうか・・。 

元服の書 NO30 羅漢(ラカン)とは、どんな人?

Q:羅漢と真珠(題名)の由来について教えてください 

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

タイトルとした意は・・「羅漢」は、阿羅漢(独り坐禅をして悟道に達した禅者の意)と、中国、実在の禅者=羅漢桂琛(らかんけいちん867~928)にもとずきます。

彼は座下の求道者に垂示している時、戒律は行儀(集団作法)を規定する意味のものにすぎず、解脱(悟り)を導くものではない。自分が望んでいることは、如何なる言葉や概念でもってしても達せられるものではない・・と、戒律を捨てて禅 行脚(修行の旅)に出た。

ここからは、鈴木大拙著「禅ニヨル生活」Living by Zen 禅選集3(株)春秋社を引用します・・

禅は、ソノモノ自体に成りきって行くという立場であるから したがって単なる形式・崇拝を嫌悪する。形式・主義は人を束縛するのみであり、精神的自由に寄与するところはない。(中略)禅は 人為的な修行の規定や論理の束縛からの解脱を目的とする。換言すれば 禅は概念から自由になろうと欲する。人間は 概念を創り出し、それによって実在を左右しようとする唯一の存在である。しかし概念では実在は汲みつくせぬ。(中略)・・人間を真に自由にし、解脱させ 自身の主人公たらしめる禅の方法は、あらゆる概念、主義を容赦なく拭い去る徹底した否定・・もはや否定すべき一物もない 絶対否定に達する・・これが大いなる涅槃である。

一人の仏教哲学者が尋ねた「涅槃とは何ですか」

大珠が答えた「それは生死の業(ごう)に身を委ねないことだ」

「生死の業とは何ですか」

「涅槃を求めること・・汚濁を捨て清浄に執着すること・・獲得と到達のあるところに生死の業はある。また相反する観念を取り除こうともせぬ、これもまた生死の業である」(一切の知的努力、分析検証を捨てなさいの意・・臨済(?~867)は「造作することなかれ」盤珪(1622~1693)は「不生」で片付く・・と述べている)

「では如何にしたら解脱は得られますか」

「最初から人は束縛されてはいない。だから解脱を求める必要はない。ただ「這箇」(しゃこ・・ソレの意)を用いよ。ソレを行なえ・・それこそが比類なきものだ」・・

禅に関心のある方は、参考に、仏教学者・禅者である故・鈴木大拙著の禅集を読まれることをお奨めします。

真珠は・・満月の深海で宿った真珠を、今 この手に載せてみよ・・の公案です。真珠は、もともと、貝の中に異物が入り込んで、それをくるんだものが真珠だとか。

これは坐禅にピッタリの例えでしょう。

禅(坐禅)は、無功徳・・宇宙でただ一つ、何の役にも立たない行いです。価値も付加価値もない、ゴリヤクなしの行為です。

ですから、独りポッチのイス坐禅で、深く、自分の内なる声を探索なさることです。ただし、焦らず、リラックスして、まずは3分間ほど・・!

とりわけ絶版の素玄居士の意訳・無門関や、他、碧巌録の、心に刺さる一語を座下に置かれると、想いや欲気の消失が自然です。

有(会)難とうございました。

 

 

                          

元服の書㉙ 因果の世界に落ちて五百年!抜け出す手段(手立て)は?  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の 求道の問いに答えて書いています

Q:令和元年・・どのような目標の年でありたいですか? 

A:孫娘に、将来、何になりたいか聞いたオバアチャン・・私は看護婦にナリタイ。お婆ちゃんは?・・と切り返えされて思わず「ホトケサンに成るの・・」と答えたソウナ。

一休さんではないが、正月と同じで、イッタイ何が目出度いのか・・ホドホド・マアマアの・・よくわからない祭日を過ごしています。

禅語録「無門関」に、野狐禅に例えられる「百丈野狐」第二則公案がある。昔々この(大雄)山に住した・・私(お坊様)に行脚の僧が問い尋ねた・・「禅の修行を積んだ者は、因果応報(原因と結果)の世界から脱出できるでしょうか」私は「不落因果(因果に落ちず)」と答えたのですが その瞬間、狐の姿にされて五百年経過しました。

どうぞ助けてください」と、百丈に救済を求めた。

野狐から救った禅者、百丈の一語は「不昧(ふまい)因果」クラマサナイの意。

百丈懐海・・百丈720~814・唐 玄宗皇帝35歳の頃 楊貴妃の前年 誕生。国の上下で、爛熟、頽廃した時代。禅林清規の創定者。日本では聖武天皇桓武嵯峨天皇の頃の禅者。

この禅問答は、奉魯愚・碧巌の歩記「碧巌録 意訳」に詳述します

要は、後先考えず、今、ここにある生活、仕事を大事にしなさい・・と云うことです。悟りを求めて坐禅をしたり、東大合格を目指して塾通いしたり・・して得た成果は、かえって迷いを深めたり、後悔の繰り返しとなりましょう。どうやら根本的に「目的と手段」の後先を誤まっています。「手段と目的」が正解です。説教めいて言えば「手段・方法」の行為にベストを尽くせば、結果はどうあっても「マアマア」と納得できましよう。

例えば・・たかが3分の独りポッチ坐禅が出来ずに、安心を得たいとするのは傲慢でしょう。日頃の努力を重ねずに、大金を得たいとするには、タカラクジに当たるか、人をだましたり強盗したりしか方法がないのです。

因果応報に落ちない方法(対策)はアリマセン。

因果関係をだませないのなら、毎日の暮らし・・その1時間1分ずつを、誠実に、努力して・・その成果に甘んじる自分であることです。

結果とは「諦め」ではなく【明らめ】です。

落ち込む事はアリマセン!

今日、武田邦彦先生のブログを拝聴しました。https://takedanet.com/

「人生の目標・先と後」に感銘して、この野狐禅を引きずり出しました。

私は、日頃「お気に入り」に入れて、先生の語りを楽しみにしております。

是非ともに推奨いたします。

 

 

禅(ZEN)羅漢と真珠 ◆坐禅の心要⑴ 放下着

坐禅をしないと悟れませんか?

中学・高校生とその親御さん達~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

禅(ZEN)は、例えると・・

大地(坐禅)に咲く木槿ムクゲ)の花です。

その一樹のタネは「自分とは何か」・・

自己をかえりみる心の問いと、その独り一人の自覚です。

坐禅 無くして「悟り」は ありません!

結論を先に書きます。昔・・坐禅せずとも悟る人が多くありました。(紀元千年の前後、まだ禅者が独り、山奥に庵を構えて生活し、求道者が行脚していた頃)・・以降 宗教的集団(寺僧の組織・運営)の現代まで、いくら坐禅、修行をしても「悟れない」人が大多数となりました。

(例えば、一休・良寛など、晩年は「独りポッチ禅者」です)

長い偽禅 横行の時代が続いて・・平成になった頃から以降、どこぞの禅寺の老師さんから「印可」(悟りの証明)をもらったとか、禅の公案が透ったとか、野狐禅(やこぜん)バカリが目立ちます。

スマホやPCの発達からAI時代を迎え、本=活字文化が衰退するのと同調(シンクロ)して、口頭禅/観光禅・・いわゆる形骸化した禅(ZEN)しか残らず、世界に漫然と拡散しています。

アメリカなどで「ナイト スタンド ブッデスト」という、仏教に関与しない庶民の瞑想・坐禅が注目されています。

神・仏に欣求祈願しない普通の人が(国籍、主義、社会的地位、信仰を問わず)仕事から帰って 自由に 独り 静かに、坐禅(瞑想)する事をいいます。

かねてから禅は宗教ではない「独りポッチ禅」こそ「純禅」と提唱して、この奉魯愚(ブログ)を通じ紹介してきました。

(この はてなブログで【禅者の一語=碧巌録意訳】【禅のパスポート=無門関提唱(素玄居士)復刻解説】【禅・羅漢と真珠=禅の心 禅の話】で、合計17662回のアクセス(閲覧)があったそうです。誰共、仲間にならない・・独りポッチのイス坐禅ですが、来たる者は拒まず、去る者は追わず・・少しづつ、純禅(坐禅)への関心が高まっているのでしょう。こんな役立たずな奉魯愚(ブログ)であればこそ、何回も見ていただけるのは、大変ありがたいことです)

世間では、禅や坐禅・悟りについて・・ストレス解消に役立つとか、呼吸法は健康増進に良いとか・・心理学的療法に良いとか・・効用効果を求めたり、成果・検証を訴求して飯のタネにするものばかりですが・・。

無償、非組織、教導無用、この奉魯愚も読み捨て忘却して、独りポッチいす禅を無理せず実行してください。貴方のこだわりとか思い上がりや仲間意識など坐禅に不要なことは、早く捨て去ることです。。

純禅(の坐禅)は、どうすればできるのですか?

何の役にも立たない(無価値)な・・一切の造作(比較・執着)を追わない「独りポッチの坐禅」をすることです。

ある禅者は悟りの一語で「無功徳(むくどく)」/「莫妄想(まくもうそう)/「放下着(ほうげちゃく)」と言いました。

これら見性(悟り)のヒトコトは、この羅漢と真珠「至言の禅語」で紹介していきます。

今回、坐禅の心要は放下着(捨て去れ)です

これは、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん778~897)の求道者、厳陽との問答による一語です。

長年の坐禅・修行で、無一物の境地に至ったと自負する厳陽に、趙州は、イキナリ・キッパリと禅機・禅境(地)丸出しの「放下せよ(捨て去れ)」と言い放ちました・・悟りの境地である「無一物」の境地すら、自我意識、未練の残りカスがある・・それを捨て去って、少しも跡を残さないところにしか「純禅」の花は咲かないぞ・・と一語を浴びせたのです。                          

  • 坐禅は、自己究明の手段(方法)ですが、結果(悟り・自己救済)を求めても決して得られません。禅は、もともと無功徳・無効用・無一物ですから、まず、役立たずのゴリヤクなし・・と覚悟してなさることが肝要でしょう。
  • 坐禅は・・誰からの教導も受けず、お一人で、数息して、なさってください。約10秒程度の呼吸を「ヒトーツ、フターツ・・」と18回数えます。それで計3分程度の坐禅です。

坐り方は、イスに座り 姿勢よく 眼は半眼に、手は肩に力の入らないように(合わせるなり膝におくなりリラックスして・・時に ベッドで寝禅(夜/朝)トイレで坐禅。通勤、通学の電車の中のつり革禅。休憩時間のひと息禅・・ご自由に。たったこれだけですが 独りポッチで ナカナカ続けられません。

以前、独りポッチ禅のご案内をしたら、やたらに形式にコダワル人がいました。足は結跏趺坐でなければ・・せめて線香3本位は・・など、ソンナ作法の多い、痛くて苦しい坐禅はお薦めしません。偉いお坊さんや学者、先生の講演話を聴いたり、お仲間と写経や、精進料理を食べ歩く観光禅は要りません。お金も先生も仲間も時間も、一切 何の手間のかからない、役立たずの坐禅をする・・それが「禅」です。

ゼーンブ・・放下し尽くして、心が木槿(ムクゲ/無垢偈)の花のように、青空に香り豊かに・・風に乗って流れていく・・それが風流でしょう。

ムクゲ(花)を、無垢(むく・清らかの意)偈(げ・悟りの詩)にダブらせました・・見性は言葉・文字にできない直観的な自覚・発見発明です。せいぜい俳句とか詩とか、銘とかでしか表情(表現ではなく)できません。奉魯愚(ブログ)で、意訳中の禅語録・・無門関とか碧巌録の逸話、問答が、ウムと納得できたら、後は、アナタの「禅による生活」があるだけです。

禅(ZEN)について 素直で単的な見解・疑問・質問があれば・・日本語のメールでどうぞ。

日本語で率直にお答えします。宛先 加納泰次  taijin@jcom.zaq.ne.jp

 有(会)難うございました。4月17日(WED)追記補筆。 

「ナイト スタンド ブディスト」について・・

お尋ねの件・・2019年4月2日(火)改訂しました。

アメリカ(西欧)での・・仏教・寺僧の教導に頼らない(宗教・主義に関与しない)一般の人が、夜、電気スタンドをつけて仏教関係の書を読んだり、坐禅・瞑想をしたりすることを云います。

ただ、自分(独り)の生き方を省(かえ)りみて、静慮・瞑想・坐禅をするのは、大変 良いことだと思います。

仏教には、もともと、狭義で言えば「仏陀(覚)者の教え」と、広義には「仏(ゴーダマ シッダルダの)教(団)」の二面性があります。ですから、求道修行中の仏陀(私は釈尊と云っています)が、菩提樹下、暁の明星を看て大覚されたZEN・・阿羅漢(アラカン・自己を究明した覚者)の「坐禅」を真似て 仕事の会社帰りの欧米人が 独り、夜坐されたり、寝坐、起床坐されたりして、何の規制(律・戒・宗教組織)教導を受けることなく、自由になされることを・・(かねてより「独り(三分間)ポッチ・イス坐禅」で)推奨しております。

   *自由とは・・自(おの)ずから由(よし)とする意です。

   *人/単(独り)と書いて禅。坐禅の坐は、自然、大地の上に、

    バラバラにスワル姿です。家の中の座とは書きません。

「禅」は・・広義でいう「宗教」ではアリマセン。

哲学・文学や論理的概念でもありません。

菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡海して、梁の武帝と面談(520年)禅について問答した逸話は、禅語録「碧巌録」に詳しいのですが、当時、中国で広まっていた仏教との比較話で達磨は「欣求=祈りの対象たるべきことも無く、効用効果=功徳もなく、青空の如き心境(地)」・・が禅であると述べています。「ソレじゃ、いったい、アナタ(達磨さん)は何のために支那まで来たのだ?アンタはわざわざ「無い」ということを伝えに来たというが、イッタイ何者なんだ?」・・との問いに「識らず」と断言して、嵩山少林寺に面壁九年、坐禅されました。ZENは すでに釈尊の布教行脚の時から、独り、弟子の迦葉(かしょう)に付嘱す(ふしょく依頼・タノムの意)とされている仏教外・別伝の出来事です(事例 無門関 第6則 世尊拈花)また、日本に伝播した禅については、達磨以来~現代インド仏教の面影は まったく どこを探してもありません。

こうした禅語録の、問答逸話のどこが、達磨を始祖とする「禅」を「宗教」として伝えた・・と言えましょうか。

悟り(見性)は。ひょっとしたハズミで起こる禅(機)の自覚体験です!この自分にしかワカラナイ・・文字にも言葉にもできない禅経験を、日頃の生活の中で、実現醸成して(禅)境地を深めていくことです。

 

論理(哲学)的に云えば、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)・・何のことやらの心のありようです。これは、坐禅したから悟れるような、また論理的でも修行努力の結果でもありません。

禅が、中国・日本で宗教(的組織)化したのは、寺僧の集団事情・国土と政治変遷、現実重視の風土などが因縁であり、さらに日本に伝播して、天皇・武士社会に定着した由来もあります。

禅の伝播は やむを得ない事情と、生業(生活手段)の、寺僧による長い時期の揺籃を経て 今日があるのです。

しかし、日本の戦後にいたり、親離れか子離れか・・宗教集団、組織のクビキからナカナカ脱却できず、寺僧の跡継ぎ養成の為の温室栽培の如き修行道場や、僧堂の師家たちのアンチョコ教導、学問化、知識化した 接ぎ木のような伝灯に至って、遂に立ち枯れ状況になってしまいました。

これは 外国人歓迎の観光・拝観禅に成り下がった、まるでパンダ絶滅種の有様と言えましょう。

(ですから 外国の方に禅を語る時は、日本で学修できることではなく、独りひとりの坐禅体験を通じて、独り一人が「禅による生活」を自覚する出来事だ・・と、お伝えください)

かって・・純禅のタネは、アメリカなど太平洋を越えて大樹となるよう、先達の鈴木大拙(仏教学者・禅者)先生等が、無依の種蒔きをされました。

せめて、まず、坐禅したいとか、禅を知りたいとか・・の外国人は 鈴木大拙著「Living by Zen」(禅ニヨル生活)の1冊を、読みこなしていただきたいのです。

そのうえで、誰にも語らず、他に学ばず、ただ独り、禅語(趙州無字 隻手音声など)関心をもたれた公案を念頭に、坐禅してください。

外国人がナカナカ「悟り・見性」できない理由を、鈴木大拙先生は以下のように語られておられました。

「私には手がある。5本の指がある」・・という、

英語では【手を持つ・・5本の指を持つ】・・という。

自分の手であり、自分の指であるのに、他人事のHAVEを使うと・・

私流の解釈で言えば・・英語は、在る、無い・・是と非を明確に分別するので、学問・科学の研究に有利な言葉です。しかし、東洋・日本語の「如去・如来」とか「看 脚下」など、漢字のもつ・・冷暖自知、天地同根の意は、香を聴くという日本人と同様に理解するのは難しい。彼らは英語で「考え・分析」しているから「無」の文字ひとつ・・無 嘸 牟 巫 懋 亡 梦 矛 廡 无 母 敄・・など 計60文字(PC検索)の意味など 直ちに理解できないこと・・なのです。目的と手段を ハッキリ分別・論理思考する彼らは、2千年以上の昔から、論理的思考に染まっているのです。その言葉と文字のシガラミは、2千年の歴史であり、容易に脱却できるものではアリマセン。

しかし石上に花を咲かせ、大海の水をひと息に飲み干す・・真の禅者を、この世に・・たった一人でも 誕生させるのが禅の所以(ゆえん)です。

これを願って「役立たずの 独り(3分)ポッチ坐禅」を提唱しています。

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録 意訳

       「禅のパスポート」無門関 素玄居士提唱 意訳

どうぞ、ナイト スタンド ザゼン のおりに ご覧ください。

有(会)難とうございました。