至道の言語⑸ 私は「随所に主となる」を、このように読み解きます!

至道の禅語⑸  

随所作主 立處皆眞(ずいしょに しゅとなれば・・)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

スマホやTVなどの発達と同時に、日常の言葉や文字は、希薄な対人関係の中で、すぐに抹消される電報文のようになりました。

ほとんどの禅語(に限らず)の意味・解釈が、間違いだらけ、誤解だらけになり、まるで猫を犬と呼ぶような・・どうせ同じ愛玩動物だから良いではないか・・の想いがあるのでしょうが、無責任な会話に加え、米語・カタカナが会話の半分以上を占めてKYの如き、世代ごとにしか通じない、断線して繋がらない・・しかも激流のような情報過多にあって、自分にとって、面白いか(楽しいか)、役立つか・・だけの2者選択する状況です。

現代、街中の若者の会話は、仲間だけの、全く好き嫌いだけの感情的な短文であり、日本語の原風景は、根元から腐り果てた、再構築できないような打撃を受けています。新聞や本など読まなくなれば。活字で思考する頭脳が劣化するのは当然です。

これから、一層に、手間(労力・時間)のかかる、温かい人間関係はなくなると思います・・例えば「看る」/「診る」⇒「データ」/「検査」にとって代わる時代であるとして、心ある青少年に警告しておきます。

【言葉や文字が、信用できない時は どうするのか・・】

もともと、私は・・(禅の)始めっから、言葉・文字を、黒ゴマを並べた(小さい文字の例え)共通の意思の処方箋に過ぎないとの観点です。その人の「行い」だけが、真の薬である・・との立場です。しかも千年後の「行い」の評価だけを、ホントに信じてもイイことにする・・との覚悟で書いています。

では・・千年後に残る、人間の価値とはどんなものでしょうか・・多分、芸術(文学、絵画、音楽など)位しか評価の対象にされないでしょう。

では・・いま、自分や、周囲の生活に関係する「行い」を基準にした場合、どれだけ本当のことがあるのでしょうか・・?

愚痴を言ったり、言い訳したり、釈明したり、争って自己主張したり・・これは、大事な行いが、自分であれ、相手であれ、不十分な、信用できない状態(出来事)です。

いま、ここで自分がしている勉強や遊びや、掃除や買い物の手伝いや・・一つひとつの「行い」のツナガリに、自分が自分を信じられる「生き方」であってください。

それが「独りポッチ」で生まれ「独りポッチ」で生き「独りポッチ」で死ぬ・・宇宙でただ一つの遺伝子を持っているアナタの元服(自覚)であると思います。

以下、私は、このように、誤解だらけになってしまった「禅者の至言」を読み解きました。

Q随所作主 立處皆眞(ずいしょに しゅとなれば りつしょ みなしんなり)とは?

この禅語 出典は、臨済碌(行録)にあります。

(参考:平常無事 第11講 提唱 足利紫山著、出版 大宝輪閣)

    師 衆に示して云く、道流(どうる/皆の衆)・・

    仏法(禅)は功を用(もち)ゆる處なし。

    ただ これ平等(びょうじょう)無事なり。

    屙屎送尿(あしそうにょう/大小便)、着衣喫飯、困んじ来れば すなわち臥す。

    愚人は我を笑う。智はすなわち これを知る。

    古人云く 外に向かって工夫をなす。総にこれ癡頑(ちがん)の漢。

    なんじ しばらく随所に主と作(な)れば、立處皆眞(りっしょ みなしん)なり。

    境きたれども回換(えかん)することを得ず。

    たとえ従来の習気(じっけ)、五無間(ごむけん)の業あるも、  

    自ずから解脱(げだつ)の大海となる。

意訳します・・ある時、臨済老師(禅・臨済宗開祖)が示衆(じしゅう)した。

わが(臨済の)禅は、世の中に貢献したり、修行努力して有徳の人に成ったり、造作、計らいで悟道に至るような、そんな工作物ではないぞ。

ただ・・ただ・・毎日、日ごとの行事、仕事や生活ごとに、イキイキ、ピチピチ、やれているかどうかが百点満点の目安になるだけだ。

馬鹿正直になって、誠実に、暮らしが出来れば、その人の真の価値は自ずから、よく自覚できよう。世間体ばかりを気にする愚者には解かるまいが、禅者なら、その行い(禅による生活)が認知されよう。

心外(他)に向かって、何事であれ、忖度(そんたく)、造作をする者は、南半球で、北斗星をさがすような愚かな遭難者だ。

見る時は、造作なく(無心)に看る。聞けば、ソノママ聴く。花の香りも、至る所、すべて、大過なく、チャントちゃんと・・グズグズせずに対応できる。そうゆう主体性を自己の柱に据え付ければ、まずまず一安心の禅者であるといえよう。

ナカナカ出来ることじゃないが・・。

マア・・スマホを手にすれば、スマホに心を奪われ、著名人がオナラをしても有難がる・・私は、そのタグイの人を独立していない(足のない)幽霊ビトと云っている。生まれてからの「知ッタコト」・・人間五感から得た情報はソノママだと五欲となる。これを禅では「業」というが、坐禅でクリーニングせなアカン。

その努力の禅境(地)が・・至る所、なすこと、やること・・全部がピチピチ、イノチが輝くことになるように・・。              

【随所作主 立處皆眞】独立して、立ち居振る舞いをしっかりと行え・・周りは口先ばかりの愚痴・言い訳の幽霊ビトばかり・・ソノヨウニなるな・・の意。

臨済義玄(?~867 黄檗希運の弟子 禅・臨済宗開祖)

*この同義に「脚下照顧・看脚下」/「門より入る、これ家珍にあらず」などあり。

  

元服の書⑲ 口に出すのは世間のはなし・・ココロで想うは・・

元服の書⑲ 

Out of the mouth comes evil・・(口は災い、誤解の根)

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

Q:どうして「禅」は・・言葉や文字で表現できないんですか?

禅の本や解説は、昔から山ほどあるのに、どうして言い表せない「不立文字(ふりゅうもじ)というんですか?           

:私の信条は・・心コロコロ「人生、裸(心)で生きるべし」です。漢字では「浄裸々(じょうらら)」と言います。この私の75年の人生の見解(けんげと読みます)・・たったこれだけで、どこまで理解いただけるしょうか?

それは無理ですよね。私の生活の集大成の一語ですから、私自身ですら、言葉や文字では書き尽くすことはできません。

禅、必携の書と云われる碧巌録、無門関の1則ごと、釈尊や達磨や・・一休さん良寛さんや、ミンナ皆、達道の禅者、独り一人、その来歴、禅境は、その人、独り一人にしか・・会得されず、ワカラナイのです。

(千年たって語録に数行、表記されるだけです)

禅は・・アナタにも・・私にも・・それぞれ一人ずつに「禅」があり、つまり、教わらなくとも、独り一人に、チャントとあることに気づくのが「悟り」であり、その方法が坐禅なのです。

禅は「本来の面目」ともいい「仏性・無心・空則是色・般若」など、その意味する表現は一杯ありますが、要はアナタの不安な心が・・突然、安心な心に、コロンとヒックリ返る・・それだけの話です。

どこかに青い鳥をさがす旅に出る・・わけではありません。

寺僧の教導を受けたり、本を読んで思考したりは、かえって迷いの元。考えるというのは、頭の中に文字・言葉が、父母や学校で教えられて入っていて、それで判断(分別・比較・優劣・対比・分析・・)するのですから、論理的にも、哲学的にも、倫理的にも、宗教的にも、物理的(参考になるのは量子の働きぐらい)にも、説明しうる言葉や文字はありませんし、考えることを考えるのは無理というもの・・考えは役立ちません。かえって、次々に思考や妄想が湧いて、正邪の比較判断ができません。

これは実際の地形が天変地異で変化しているのにかかわらず、旧式の地図で、おかしいなァ・・と首をひねるようなものです。

アナタが、この【禅者の一語・禅のパスポート】などご覧になって、フト・・関心をもたれた言葉・文字・禅者の行い・・があれば・・何だろう・・どうして?と、首をひねった(ソノコト)が、アナタだけの「禅」の入り口であり、実は出口なのです。

釈尊や達磨や、達道の禅者が、説明も講釈も出来ない、黙非している姿こそ「禅」なのです。どうぞ、独りポッチの、役立たずのイス禅だけが、迷わぬ者に悟りなし・・純粋に、独り「大擬」(尽きつめずには置かない疑いの塊)できる手段なのです。

容易ではありませんがあせることなく自己発見をして下さい。

何か坐禅することで、価値(悟り)があると期待したら、もうそこで考え(計らい)が働きます。

禅から一番、遠ざかる執着(造作)のトリコになるのです。

役立たず・・独りだけでの坐禅をなさいますように・・!

(とりわけ 見る・・を「看る」と書けない、手と目で看ると書く・・意味が分からない外国の方は、自他の分別(ふんべつ/ぶんべつ)意識が強く、成否に執着・拘泥する傾向がありますから、鈴木大拙著「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう推奨します(後の講釈一切、信じないことが大事です)

誰か教導の指導者を求めて、日本にやってきても・・「禅」は宗教ではない・・寺僧はナリワイ(生活手段)の、観光営業にすぎないことを理解ください。

アナタの中にいる青い鳥=自己大発見は、アナタ独りでしかできず、教えることも学ぶことも出来ないのです)

さて、独りポッチ坐禅・・と、子供言葉で書きましたが、誰にも言わず、言えず、禅は、例え 大覚自知し得たにしても、黙する以外、手立てはアリマセン。

しかし、役立たずの独り坐禅を続けると、一つだけ、ハッキリした境涯が、気づかぬ内に、アナタを包み込むことでしょう。

それは「寂寥(じゃくりょう)」です。

別名「無常観」少し仏教臭のする言葉ですから、ピチピチ生命の溢れる禅境の底にある、どんなことにも揺るがない「寂寥心」が適名でしょう。

この寂寥(大慈)の内に包み込まれたら、役立たずとか、価値とか、三昧境地とか・・言葉や文字に拘(こだわ)ることがなくなるでしょう。そこから百尺竿頭 歩を進める・・飛躍(ジャンプ)が始まります。

Say as men say but think to yourseif. 

(口に出すのは世間の噺。心で想うは寂寥感)

有(会)難うございました。     

至道の禅語⑷ 百尺竿頭に一歩を進める・・とは?

至道の禅語⑷ 百尺竿頭 進一歩(ひゃくしゃくかんとう いっぽをすすむ)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:竿頭進歩とは?

高い場所で、およそ30メートルの竿先にたどり着いた者に対して、ゆらゆらする竿先から、何もない空間に、さらに一歩踏み出しなさい・・という禅語・・無門関 第四十六則 竿頭進歩(かんとうしんぽ)に由来する禅=公案のタイトルです。

孟宗竹(もうそうだけ)を、高い場所に差し渡し、竿先まで歩き・・さらにその先に踏み出してみよ・・という、坐禅、禅機(悟りに至る動機)の意味ですから、孟宗を「妄想」に置き換えて、これを断ずる・・煩悩無尽誓願断(四弘誓願)とする見方も出来ましょう。

でも反論です。純禅では、煩悩を断ずること(煩悩無尽誓願断・四弘誓願)は計らい、造作であり、欣求すべきではない・・逆に、煩悩こそ菩提(悟り)であり・・煩悩即菩提・・故に独り一人に禅(悟り)がある・・としています。

要は、坐禅(坐具、座布団)の上で、一度(自我意識を捨てて死んで)見よ・・の例えなのです。

確かに、禅寺(僧堂)の団体修行の場では、集中力を増し三昧境に入って、自我(思考・妄想)の接続を断捨する接心(坐禅)があります。

しかし、私は、皆さんにお勧めしません。

そんな荒修行、苦行の参禅で悟りを開いた人を、古今、見聞しないからです。

禅寺の跡継ぎを養成するために、3年か5年か、僧堂へ強制的(集団、促成栽培)におくりこんで、坊さんの資格を取らせる・・こんな鍛練法で、悟れないばかりか、悟りの心境までカンペ、コピペで教え込み、印可(悟りの卒業証書)を与える。これでは、純禅が滅びるのも無理ありません。

今時は、座布団の上で、死ぬようなつもりの集中力で・・と言っても訳がわかりません。

そこで・・私は釣り好きです。釣りで一番に釣果をあげた人を竿頭(さおがしら)と呼びますが、その竿頭(釣り名人)の、一歩先を歩む超名人とは、いったい、どんな人を道うか・・それが公案です。

 看(み)よや 看よ       どうだ・・見えるかナ

古岸 何人(なにびと)か       はるか岸辺で釣り竿をとる人がいるぞ 

釣り竿を把(と)れり         雲は青空にゆうゆう・・

雲 冉冉(ぜんぜん)たり       水はその空に映えて たゆとう

水 漫漫(まんまん)たり

名月蘆花 君自(みずか)ら看よ     ナント・・よく見てご覧。

                    釣糸も釣針も無い、エサさえもない

                    釣(竿だけの)老人だったのか

                   碧巌録 六十二則 雲門形山秘在 頌(じゅ)意訳

 

【竿頭進歩】・・独り一人、坐禅や生活行動の中で、自分にチャント備わっている自性(無・空・悟・禅)とは何か・・を閃く(ヒラメク)ように体覚せよ・・の意。

 

悩み、禅に期待して・・フラフラと禅を訪ねて日本に来る外国の方へ

尋ねるまでもなく、英訳発行の、鈴木大拙著「Living by ZEN」禅による生活・・を読んでください。

独りポッチの坐禅と、働き生活する、そのTPOでしか純禅を得る方法・手段はありません。禅は昔、仏教(僧)寺院で揺籃されましたが・・宗教ではありません。独り一人にあるZENを、それぞれの暮らしの場で、独りポッチの坐禅をして自得してください。習学、教導に「禅」はアリマセン。

はてなブログ 禅のパスポートで、無門関四十六則、素玄居士提唱を紹介しています。

 

 

 

至道の禅語⑶ 解打皷(かいたこ)とは?

至道の禅語⑶ 解打皷(かいたこ)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:解打皷(かいたこ)とは?

碧巌録 第四十四則 禾山 解打皷(かざん かいたこ)に由来する禅、公案のタイトルです。

禾山無殷(かざん むいん)に、求道者が達磨禅「廓然無聖」(かくねんむしょう)の眞意をたずねると「解打皷」・・「太鼓をしっかり叩く稽古をしなさい」と答えたことに由来します。カイダクと読みますが、昔から「かいたこ」を澄んで呼びます。

この求道者、手を変え、品をかえて質問しますが、禾山老師の答えは、どんな問いにも「解打皷」一辺倒です。

これは、3分間独りイス禅を少々行ったから解かるといった禅の公案ではありません。詳しくは・・はてなブログ 禅者の一語 碧巌録第四十四則(意訳)を読んでください。

注意すべきは、達磨問答の聖諦第一義とか、タイコ叩きに執着しないこと。自分の仕事や、日常の出来事・・一つひとつが、甘いか、辛いか、酸っぱいか・・

騙されるなよ・・どこからか君を呼ぶ・・

「ホ―タル来い・・こっちの水は甘―まいぞ!」に・・

【解打皷】・・太鼓を叩く稽古をしなさい・・の意。

禾山(大智院)無殷(かざん むいん 891~960)、始め福州(福建省)雪峰(山)義存(76才)の侍童となり、908年 雪峰(象骨老師)示寂の後、910年、筠(いん)州(江西省)九峰道虔(きゅうほう どうけん)に師事。

禾山は、六祖恵能に次ぐ青原下七世・・石頭→薬山→道吾圓智→石霜慶諸→九峰道虔→禾山無殷(達磨より十三世、祖位の禅者)

禾山の師・・九峰の逸話を記しておきます・・千年昔の禅者、求道の姿は命懸けでした。

そうした禅者の生活の一コマがピヨンと浮かび出てきます。

石霜が遷化の時、全山あげて第一座(名不伝)に跡を継がせようとしたが、九峰ひとり猛反対した。

「石霜七去の話」・・先師の意を領得した者だけが当山の主たるべし・・「休しさり、歇(けつ)し去り。一念萬年に去り、寒灰枯木し去り、古廟香炉にし去り、冷湫々地にし去り、一條の白錬(びゃくれん)の如くにし去る」・・

しばらく道え、これ、那辺(なへん)の事を明かすや・・と。

第一座は「先師の意は、大悟のあとに、なお悟臭あり」(一色邊;イッシキヘンのことを明かす・・)としたが、九峰はキッパリと否定した。

そこで第一座、大悟の証明に、坐脱立亡をして見せる・・と大見得を切って香をたくことを命じたのである。

命がけの問答である。

居並ぶ大衆、注目の内に香炉に香がたかれ、第一座は粛然とその場で坐亡した。

九峰は、生けるが如き第一座の屍に、断然と言い放った。

「坐脱立亡はなきにしもあらず。首座は先師の意、いまだ会せざることあり」・・と。

このように峻烈な九峰に随侍(師事)してきた禾山である。

後日談がある。

ある時、九峰は、黙々と作務(さむ 畑仕事)する禾山に問う「独り、のらりくらりの毎日をすごす。お前さん、いったい、どのような境涯を目当てに修行しているのか・・どうだ?」

禾山「真っ暗な夜がカラリと明けても、眼が見えない者は、やはり目が見えません」と答えたという。

太鼓を叩いても、本音でナカナカ為(な)らないものだ。

 

至道の禅語⑵平常心・・誤解誤訳だらけの偽造禅語・・その代表例

至道の禅語⑵平常心是道(へいじょうしん これみち)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:平常 是道(へいじょう ぜどう)とは?

試合前のスポーツ選手や試験日の学生が、インタビューで「平常心」で頑張ります・・などと言っている「平常心是道」の禅語は、紀元八百年頃、揚子江の南(安微省池州)の南泉(山)普願(なんせん ふがん748~834)に相見。参禅師事した趙州従稔(じょうしゅう じゅうねん778~897)の問答が起源です。

当時は玄宗皇帝、楊貴妃の時代・・爛熟腐敗の政治社会で、禅者と求道者は人里離れた深山幽谷の禅庵に遁れ、枯淡に暮らしていました。

南泉老師は、趙州従稔の禅機(見性のキザシ)が熟してきたとはいえ、公案ヒョウタン・鯰(ナマズ)」の、まるで、ナマズの尻尾の先が瓢箪に入らず、外に残っているような・・つまり瓢箪の口にナマズの尻尾が揺れているような不安定な状態を看て、ココゾとばかり、禅者の「平常心」の禅境地を語ります。

(見性は、釈尊以来、独りで覚真するものですが、求道者には師の生活言動そのものがヒントになっています。例えば臨済碌などは、師の黄檗とのやり取りや、他の禅院の達道の禅者との問答を通して、禅機禅境(地・・悟後の長養、修行)を鍛錬した行碌です。禅は、悟って安心・・それで済むような自己執着丸出しの幼稚な事ではありません)

趙州・・人の歩む道とは、どのようなものなのでしょうか?

南泉・・平常心がアリノママに道である。

趙州・・何か確固たる心得がいるのでしょうか?

南泉・・平常心は、これを保持(意識、造作)しようとスレバ離れていくぞ。

趙州・・でも保持できなければ道に添っているか・・離れているか覚(確)信が持てないのではありませんか。

南泉・・平常心は、知的(論理的)体験でもなければ感性(本能的)行動でもない。また不知は木石の如く死物にすぎず言句は仮の名であるし、それを造作する態度は平常心を失うことになる。

(疑いようのない)悟境。この道に達したら、お前さん自体がカラリとした青空の広がりである。いや、それすら透化して釈迦、達磨が来ても、ウもスも言えるものか(これ・・をお前さんが冷暖自知するのみだ)

趙州・・言下において頓悟(ヒラメキ・廓然洞豁かくねんどうかつの世界を体覚)した。

  無門曰く・・悟ったという趙州、まだ禅の臭みが抜けきれないぞ。

  瓢箪(ナマズ)の酒がうまくなるには、あと三十年位はかかるなぁ!

【平常心 これ道】・・平常、非常ともに忘れて体得した「禅による生活」を行う・・の意。

 

   出典・・無門関 第十九則 平常 是道 【本則】

   南泉 チナミニ趙州 問う「如何なるか これ道」

   泉云く「平常心 是れ道」

   州云く「かえって趣向(しゅこう)すべきや いなや」

   泉云く「向かわんと擬(ぎ)すれば すなわち そむく」

   州云く「擬せずんば いかでか これ 道なることを知らん」

   泉云く「道は知にも属せず、知はこれ妄覚。不知はこれ無記。

   もし真に不擬の道に達せば なお太虚(たいきょ)の廓然(かくねん)として

   洞豁(どうかつ)なるがごとし。あに、しいて是非すべけんや」

   州 言下において頓悟す。

無門曰く 趙州たとえ悟り去るも、さらに参ずること三十年にして始めて得るべし。

 

【附記】心でもない 形でもない 色でもない 光でもない 声でもない ハタマタ あるでもない 無いでもない 般若心経のナイナイづくし・・が納得できないと、禅者の平常心はわかりません。それには造作のない素直な3分間の「坐禅」(澄心・・澄み切った心)が大事です。この独りポッチの坐禅が、無造作に出来たら・・キット平常心が身に付きましょう。

はてなブログ 禅のパスポート 無門関 十九則 素玄居士提唱・・に、「無事有事の如く、有事無事の如し」の真意・・詳しく意訳しました。

平常心を持ちたい方は、是非 ご覧ください。 

禅語を紹介する諸先生、マスコミの方々へ・・

ヒタスラ/一所懸命/集中努力が「平常心」だと解説、理解するのは大間違いです。・・そういう誤解の意味内容で新語をつくるのは・・意味ないヨ~!

 

至道の禅語⑴無事是貴人(ぶじこれきじん)とは?

至道の禅語⑴ 

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

茶道の掛け軸に、達道の禅者が発した一語の書を見かけます。

また、外国の方(わざわざ日本まで訪ねてきて)や若者が、真意を知りたくても、どうすればよいのか・・わからない時代です。

無功徳とか、喫茶去とか・・日々是好日や隻手音声など・・

その解説のほとんどが、出典の語録、禅問答の由来などTPOが紹介されておらず、真意を測りかねる誤訳の多いのが原因です。

現代人が、それだけ漢文や、その漢文あればこそ・・の禅に、関心を持ちながらも、手が伸びないのは・・禅語録を読まない、読めない・・坐禅もしない・・禅が解からない者が、解かったふりの解説や講釈をやっているからです。

禅のパスポート/無門関(素玄居士 提唱)の意訳や、碧巌の歩き/碧巌録の意訳を、この「はてなブログ(奉魯愚)」でしている私宛、タマタマ上記の「無事是貴人」の問合わせがありました。

これを機に、五百年、千年前の禅者たちが、求道し体得し、その生涯のヒトコトを世に残した「至道の禅語」を、順不同で紹介していきましょう。

禅は、宗教やストレス解消の欣求的(求め願う)思考、対策行動ではありません。もともと「独り一人」に、生まれた時から備わっている「イノチ」そのものです。

ただし、坐禅をすることでしか、発芽してくれません。

釈尊ですら六年の坐禅の後、暁の明星を看て、大覚(見性・悟り)されました。悟りを得たい・・とか。悩みを解決したい・・とか。苦しみからのがれたい・・とか・・そうした執着心やゴリヤク、効能を期待するタカラクジではアリマセン。損得を忘れた「役立たずの坐禅」であり、指導者や本や組織、寺僧、教会いらずの「独りポッチの坐禅」に終始します。

姿勢を正し椅子に坐り、眼を半眼にして、1呼吸10秒前後、6回(1分位)数えること計3回=数息(スウソク)すれば・・「3分間の坐禅」です。

簡単ですが、ただし・・容易に出来るものではアリマセン。時に寝る時、起きる時、トイレの時、電車の中、夫婦げんかの中・・やれるものならやってごらんなさい(ただし独りポッチで・・同好会厳禁・・造作ぬきの役立たずデネ)

大事なのは、時折り、意識をよぎって気になる・・意味不明、納得しかねる「禅語」です・・

どうしてかワカリマセンが、発芽する種が、雨季のくることを予知して、うずきだすような出来事です・・

「どうして この禅語が気になるのか」心に引っかかること・・これこそホントの一大事です。

一つの禅語で充分・・3分間の数息坐禅・・にかわって「禅の一語」を公案(問題)として、解釈、勘案してみてください・・

決して正解(答え)を出そうとアガカヌこと。

「あゝでもない」・・「こうでもない」とこねくり回して、ズットこねくりまわす・・

コネクルそれだけ・・です。

時に、5年後か~10年後か~気が付けば・・3分間が30分に・・3時間坐禅に・・

こうした、こねくり回しが、ただの浮かんだ雲のようになることでしょう。

Q:無事是貴人とは・・?

禅(による生活)は、純粋無雑に己の本性、真性を純一に見解することにある。師や教本にたよらず、造作することをやめ、執着・妄想を厭離(おんり)して、天地(萬物)と一体(天地同根)となれ。

己以外に、佛(禅)を求めるな。

心即佛(禅)・・これを無事の人。

造作(心、物事両面で計らう行為)なければ、佛(禅)も不要(貴人)となる。

佛(禅)とは何だ、ただの名句(文言)じゃないか・・

(錯(あや)まり了(おわ)れり。佛はこれ名句なり)

夜空の星と云っても、恒星は、それこそ星の数だけ、それぞれにあり、人といっても、現在七十億ですか・・それぞれ、独り一人が生きている。

これを科学的にと云い、哲学と云い、歴史と云い、文化的に・・と総括して十把ひとからげに評価、分別したところで、己ひとりにしかない遺伝子を、共通平均化してしまう訳にはいかない。

佛(禅)は、この自性をハッキリ自分で手づかみすることです。

何ものが言い張り、何ものが歩き、何ものが怒り、笑い、死んでいくのか・・少し坐禅してごらんなさい・・

怒りながら飯を食い、歩きながらスマホを見る幽霊ビト(依存症になる)など馬鹿らしくなりませんか。

【無事是貴人】

 天地同根の禅者こそ 貴人と呼ぶにふさわしい・・の意。

この解説の原文(出典)は、臨済録 云何是法(以下略記)に記述してあります。

師、衆に示して云く、切に真正の見解を求取(ぐしゅ)して、この一般の精魅(せいみ)に惑乱(わくらん)せらるることを免れんことを要す。

無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平等なり。

汝、外に向かって求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)をもとめんと擬(ぎ)す。

錯(あや)まり了(おわ)れり。

ただ佛を求めんと擬す。佛は是れ名句なり。

汝 かえって馳求(ちぐ)する底(てい)を知るや。

古今、参学の人も、また ただ法を求めんがためなり。

法を得て始めて了(りょう)ず。

如何なるか是れ法。法とは是れ心法(しんぽう)。

心法は形なくして十方に通貫(つうかん)し、目前に現用(げんゆう)す。

人、信不及(しんふきゅう)にして、すなわち名を認め 句を認め、文字の中に向かって佛法(禅・坐禅)を意度(いたく)せんことを求む。天地ハルカに殊(こと)なり。

  臨済義玄(~867 黄檗希運の弟子 臨済宗 開祖)

  *釈迦(シャカ/能忍。大慈大悲の意)

     牟尼(ムニ/寂黙。大智円満の意)佛(ブツ/覚者。禅者の意)

  この佛教を行脚して説示されたゴーダマ・シッダルタ尊者を釈迦牟尼仏釈尊)と呼ぶ。

元服の書⑱ フンコロガシの如く・・

元服の書⑱ 

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

Q人を殺して何故、悪いんですか。

人生イヤになったら、自殺してもイイでしょう。

どうせ自分の命、勝手ですから・・

子供たちに、アメリカの青少年にちなむ殺人事件にからんで質問されても、明確に答えられない親や教師、学者、宗教界に対して、私は危惧感を持っています。

そして「手(労力)・間(時間)」をかけないAI(スマホ・・電磁的文化)社会に浸食されていく・・それを進化と自賛するかのような風潮に、自分が自分を破滅させていくガンに侵されたような気持になるのです。

何故 人を殺して悪いのか・・

自己中の傲慢な考え(思い)に反論します。

アナタが・・自分の意思(思い)だけで、自分の心臓の鼓動を止めることが出来たり、口を閉じて呼吸を10分以上止められる方なら、その人殺しをなさる前に、どうぞ・・自殺してください。

どうぞ、ご遠慮なく、他人を道連れにせず、ご自分だけで自殺してください・・。

もし、やろうとしても、自分が死ぬための道具立てを準備しなければ「自殺」も出来ないように、人間の体はなっています。

呼吸も心臓も(アナタの命はアナタの意思に関係なく、アナタが生きるために)鼓動し、呼吸するようになっているのに・・アナタは、他人(の命)心臓を止めてもいいと云えるのでしょうか。

自分の意思に関係なく・・生まされたから・・勝手でしょう・・自由でしょう・・という傲慢な考え(思い)に反論します。

この地球上の・・どの生物が、そんな自分の意思(思い)で生まれたり、死んだりしていますか。

「自由」の字は、自(おの)ずから由(よし)と書きます。「自分」とは、自ずから(他)と分ける意識です。アナタがワガママに好き勝手にしてよい・・とか、心臓や呼吸を止められる・・とか・・いつたい、どこから、ソンナ思いを教えられ、学び、信じたのですか。自分が死にたい・・と思っても、自分の心臓や呼吸は、止めようにも止まりません。反対に、アナタはアナタの心臓や呼吸が、百年も二百年も、他人以上に続くように希望しても、アナタの心臓や呼吸は、アナタの願いむなしく、止まるべき時がきたら勝手に止まります。

アナタの思いや願いなど、冷徹に無視して死ぬんです。(諸行無情⇒諸行無常は、ココロなく・・ではなく、ツネがないと書きます)アナタや私の思いに一切、関係なく、無常にも(変化して)人や動物は心臓や呼吸が止まる時に止まるのです。

こうした・・すべてが無常の中に助け合いして生きているのに・・どうして人や動物を殺したり、イジメたり傷つけたりするのは何故悪い・・と言えるのですか。

私は、昔、風呂で体を洗っている時・・自分の右手が、顔や足に石鹸をセッセと塗り付けているのを看て、独り禅体験をしました。

左右(そう)か・・自分の右手は、自分の手でありながら、自分の手を洗えないんだ・・と。自分の左手にスミマセン(自分の左手さん、自分の右手さんを洗ってくれませんか)とお願いするんだ。ヨクまあ、自分の左手が嫌です・・と拒否しないな・・と。

洗う時は。顔や頭、背中や足の指に至るまで、皆・・スミマセンが、洗ってください・・と、自分が自分の手にお願いするんだ・・と思った時、自分だと思っていた自分は、どこにもなくて、それでいて、自分同士、助け合いしている自分に、だんだん腹の底から笑えてきました。エラそうにしていても、全部、自分が自分に「スミマセン・・お願いします・・」と頼んでやってもらうんじゃないか。

ミンナ、それぞれに無償の行為で、しかも無常な(変化し続ける)出来事だ・・と。スルトそれがズ―ンと広がったのです。体中のそれぞれ(自分が自分)に、つたない幼児言葉で・・スミマセン・アリガトウ・・と云いあいして広がりました。たゆみなく助け合い補い合いをしていることが身に沁みて、生きて(流れて)いるのだナと自覚しました。

どうぞ、アナタも「自分とは何か」・・ご自分が自然(地球)に生かされてあることを、独りポッチ坐禅で自覚してください。

アナタの心臓や呼吸が、アナタの意思や希望に関係なく、自然に止まるべくして止まって、安らかにお亡くなりになることを願っております。お互いに、それまでは・・どうぞ元気いっぱい、ピチピチと若鮎になりましょう。

以前・・「思いは頭(脳)の分泌物」と禅の本に書かれた先生がおられました。分泌物とは、要は・・クソのことです。

  • 科学者によれば、私のDNA(遺伝子)は、広大な宇宙の中で私だけ・・ひとり独りにだけのものだそうです。人類70億人か100億人か・・随分の人口ですが、たった一人だけの、かけがえがない独尊です。だから独りポッチ(独尊)の坐禅をお奨めしています。

お仲間と連れ立って、楽しく美容目的に・・の方とは・・おつきあいできかねます。また、しかめっ面の僧堂坐禅は、寺院の跡継ぎ養成(禅の温室栽培)ですから、所詮、観光拝観禅で、やはりおつきあいは無理というものです。

*昔、年賀状の裏面用に、刻印を父からもらいました。文字は「金石麗生」・・純金も路傍の石も、すべて、ひとつひとつ麗しく生まれてくる・・の意ですが、純金の方が価値があるとばかりに意味を誤解していました。金も石コロも、宇宙で唯一つのDNAなのだ・・それに、毎朝、3粒の整腸剤(ビフィズス菌)を呑んでいますが、1回の分量が100億菌だそうです。地球人口を一飲みで消滅させている訳です。もし宇宙の彼方から石油タンカー程の岩石コロ一つ、飛んでくるだけで絶滅種となる人類運命です。・・と思うだけでも、猫も杓子も・・貴重で大事なイノチなのです。

昆虫図鑑でフンコロガシを見ました。動物のフンをまあるく転がして巣に運び、それに卵を産み付けて、子供の食事をあてがっているのです。70才を過ぎて、私は、つくづく、地球のフンコロガシの1匹こそ自分だな・・と思っています。

吾れはココロ・・コロコロ「裸で生きるべし」           

*糞虫・・コガネムシ科、哺乳類の糞を食糧とし、昼は太陽、夜は天の川銀河の星の流れを測量して巣の方角を定め、フンを転がしている。

エジプトでは太陽神の化身、スカラベとして崇められた。

 有(会)難うございました。